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千 利休

时间: 2015-07-30    进入日语论坛
核心提示:茶道を確立した人物千利休 (せんのりきゅう)※ 千 宗易 (せん そうえき)ともいう ● 活やくした時代   1522年
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茶道を確立した人物
千利休 (せんのりきゅう)
※ 千 宗易 (せん そうえき)ともいう 
● 活やくした時代   1522年~1591年  安土桃山(あづちももやま)時代
 
● 活やくしたこと
 
  1522年 堺(さかい 大阪府)の商人の千与兵衛(せんのよへえ)の子として
         生まれる。
         祖父の田中千阿弥(たなかせんあみ)は室町幕府の8代将軍足利義政の
         茶同朋(ちゃどうぼう)をしていた。千利休は幼いころから茶の道を知っていた。
 
  1540年 武野紹鴎(たけのじょうおう)に茶の湯を学び、宗易(そうえき)を名のる。
           ↓
         主人と客がお互いを尊敬しあい、おごらない気持ちで接するという
         「和敬静寂(わけいせいじゃく)」をもとにした茶道を完成させる。
 
  1569年 堺の町が織田信長(おだのぶなが)に降伏(こうふく)する。
 
  1570年 千宗易が織田信長の前で茶をたてる。
           ↓
         織田信長に茶の腕前(うでまえ)を認められる。
 
  1582年 本能寺の変で織田信長が討たれる。
 
  1583年 千宗易が豊臣秀吉(とよとみひでよし)に認められ、茶坊主(ちゃぼうず)に
         取り立てられる。
 
  1584年 千宗易が大阪城内に茶室を開く。
         豊臣秀吉から3000石を受ける。
 
  1585年 千宗易が正親町天皇(おおぎまちてんのう)に茶を献じ、利休の名をたまわる。
 
  1587年 北野大茶会(きたのおおちゃかい)で千利休が豊臣秀吉、今井宗久
         (いまいそうきゅう)とともに亭主(ていしゅ)をつとめる。
           ↓
         千利休の「わび茶」が知れわたる。
           ↓「
         千利休は天下一の茶の先生として名声を得る。 
         全国の大名が、千利休に弟子(でし)入りする。
        
         【千利休とアサガオ】
           千利休はこの当時、めずらしかったアサガオの花を一輪(いち
          りん)だけ残して、あとはすべてつみ取って、豊臣秀吉をもてな
          したと言われている。
        
 
  1590年 千利休が豊臣秀吉の小田原征伐(おだわらせいばつ)に従う。
        
         【大徳寺(だいとくじ)の利休像】
           千利休が豊臣秀吉に死を命じられた理由については今も
          分かっていません。1つの原因として、千利休が建て直した
          大徳寺(だいとくじ)の山門に置かれた千利休の木像が考え
          られています。この木像は、ゲタをはき、つえをついていました。
          そのため、「山門から人びとをゲタばきで見下ろすとは思いあ
          がった態度だ。」と豊臣秀吉の怒りをかったためであるともい
          われています。しかし、この山門ができてから、千利休が大阪
          城を追放されるまでに1年以上もたっているため、これが直接
          の原因かどうかは分かっていません。
        
 
  1591年 千利休が豊臣秀吉の命令により、堺(さかい)に閉じこめられる。
           ↓
         千利休が豊臣秀吉の命令で切腹(せっぷく)する。(70才)
 
        ※ 以後、千利休の孫の千宗旦が千家を再興(さいこう)する。
           千宗旦の次男の千宗守が武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)
                 3男の千宗左が表千家(おもてせんけ)
                 4男の千宗室が裏千家(うらせんけ)
           をおこす。
 
 
● 人 物 評
 
  千利休は茶道を確立した功労者(こうろうしゃ)であると言える。その作法は、現在にも伝えられている。表千家(おもてせんけ)、裏千家(うらせんけ)などがそれである。千利休は主人と客がお互いを尊敬しあい、おごらない気持ちで接しするという「和敬静寂(わけいせいじゃく)」の考えをもっていたため、織田信長や豊臣秀吉とも対等の立場を守ろうとした。あれほど豊臣秀吉に信頼された千利休が最終的に切腹(せっぷく)を命じられたことに関しても、天下人の豊臣秀吉と対等の立場をとろうとしたためとも考えられる。千利休にとっての不幸は、茶道のために、あまりに政治に近づきすぎたということであろうか?
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