豊臣秀吉に忠誠を尽くした奉行
石田三成 (いしだ みつなり)
● 活やくした時代 1560年~1600年 安土桃山(あづちももやま)時代
● 活やくしたこと
1560年 石田正継(いしだまさつぐ)の子として近江の国(おうみのくに 滋賀県)
で生まれる。幼名は佐吉(さきち)
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石田三成が近くの寺の小僧(こぞう)になる。
【豊臣秀吉との出会い】
豊臣秀吉(とよとみひでよし)がたか狩り(がり)の途中で、
のどがかわいたので、お茶を飲みにお寺に立ち寄った。
この時、15才だった石田三成は、最初は8分目ほどのぬるい
お茶を入れて豊臣秀吉に出した。のどのかわいていた豊臣秀
吉はそのお茶を一気に飲みほした。次に石田三成は半分ほど
のやや熱いお茶を豊臣秀吉に出した。これも豊臣秀吉は一気
に飲みほした。今度は石田三成は、少しの熱いお茶を豊臣秀
吉に出した。豊臣秀吉はこれを味わいながら飲んだ。この石田
三成の知恵に豊臣秀吉は、すっかり感心し家臣にしたという。
1574年 豊臣秀吉に見出され、石田三成が家臣になる。
1582年 本能寺の変で織田信長(おだのぶなが)が討たれる。
1583年 賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで豊臣秀吉(とよとみひでよし)が柴田勝家(しばたかついえ)
を討つ。
石田三成はその時の功績で、近江水口(おうみみなくち)の城主になる。
1585年 豊臣秀吉が関白(かんぱく)になる。
石田三成が五奉行(ごぶぎょう)になり、豊臣家の政治の中心となる。
1586年 石田三成が堺奉行(さかいぶぎょう)もかねる。
1589~1590年
石田三成が奥州(おうしゅう 東北地方)の太閤検地(たいこうけんち)を行う。
【太閤検地(たいこうけんち)】
田畑の面積を測り、米の収穫高を決めた。
1592年 石田三成が朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)の船奉行(ふなぶぎょう)になる。
1594年 石田三成が関東や九州の太閤検地(たいこうけんち)を行う。
1595年 石田三成が近江佐和山城(おうみさわやまじょう)の城主になる。
石田三成が豊臣家の政治の実権をにぎる。
1598年 豊臣秀吉が伏見城(ふしみじょう)で病死する。
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石田三成と福島政則(ふくしままさのり)、加藤清正(かとうきよまさ)、
黒田長政(くろだながまさ)との対立が深まる。
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石田三成をにくむ福島政則(ふくしままさのり)、加藤清正(かとうきよまさ)、
黒田長政(くろだながまさ)は徳川家康につく。
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1600年 関ヶ原(せきがはら)の戦いがおこる。
【関ヶ原(せきがはら)の戦い】
豊臣秀吉の家臣の石田三成(いしだみつなり)と徳川家康
との勢力争い
「天下分け目の戦い」と言われる。徳川家康が勝利する。
〈 西 軍 〉 対 〈 東 軍 〉
石田三成 徳川家康
毛利輝元 福島政則
小早川秀秋 黒田長政
小西行長 藤堂高虎
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小早川秀秋(こばやかわひであき)のうらぎりにあい、石田三成は徳川家康に
負ける。
石田三成が処刑(しょけい)される。(41才)
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淀君と豊臣秀頼はこの戦いに直接関係しなかったが、大阪周辺を領地と
する 65万石の一大名になってしまう。
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徳川家康(とくがわいえやす)が実権をにぎる。
● 人 物 評
石田三成の政治力には目を見はるものがある。豊臣秀吉が全国を統一をする上で、石田三成は欠かすことのできない存在であったといえる。戦争に勇敢(ゆうかん)な武将はたくさんいても、補給や輸送、こと経済に明るい武将は少なかった。石田三成はそんな数少ない方の武将であった。年老いてからの豊臣秀吉は、政治については石田三成にたよることが多かったともいう。石田三成にとっての不幸は、豊臣秀吉の家臣としてともに働いてきた福島政則(ふくしままさのり)、加藤清正(かとうきよまさ)、黒田長政(くろだながまさ)たちの人望をえられなかったことであろうか?それとも、徳川家康の策略にかなわなかった点であろうか?