松下村塾(しょうかそんじゅく)を開いた学者
吉田 松陰 (よしだ しょういん)
● 活やくした時代 1830年~1859年 江戸時代(えどじだい)
● 活やくしたこと
1830年 杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として、長州藩(ちょうしゅうはん 山口県)の
萩(はぎ)の松本村に生まれる。幼名は虎之助(とらのすけ)。
1834年 山鹿流兵学師範(やまがりゅうへいがくしはん)の吉田大助(よしだだいすけ)の養子
になる。
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吉田松陰は秀才として知られ、9才のころ、藩校(はんこう 藩がつくった学校)の
明倫館(めいりんかん)で学ぶ。
1840年 吉田松陰が藩主(はんしゅ)の毛利敬親(もうりたかちか)に「武教全書(ぶきょう
ぜんしょ)」の講義をする。
1850年 吉田松陰が九州の長崎に留学する。
1851年 吉田松陰が江戸に留学し、佐久間象山(さくまぞうざん)に学ぶ。
吉田松陰が長州藩(ちょうしゅうはん)を脱藩(だっぱん 命令を守らずに、藩から
勝手に抜け出すこと)して東北地方を旅行する。
1852年 脱藩(だっぱん)の罪で、吉田松陰が謹慎(きんしん 自宅に閉じこめられること)
させられる。
1853年 アメリカのペリーが浦賀(うらが)に来航する。(黒船来航)
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吉田松陰が浦賀(うらが)に行き、事情を確かめる。
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外国の様子を知りたいという熱意から密航(みっこう)を決意する。
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1854年 吉田松陰と弟子の金子重輔(かねこじゅうすけ)がアメリカへの密航(みっこう 秘密の
うちに外国などに出発すること)を計画するが、失敗する。
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吉田松陰が自首(じしゅ)し、萩(はぎ)の野山獄(のやまごく)に入れられる。
1857年 吉田松陰が松下村塾(しょうかそんじゅく)を開く。
【松下村塾(しょうかそんじゅく)】
吉田松陰が開いた塾(じゅく)。学問や講義の形式にこだわらず、
時勢(じせい)を論じ合ったり、書を読み合ったりした。「学問をする
のに大切なのものは志です。志のない学問など、何にもなりません。」
と若者に言い聞かせたという。この塾(じゅく)からは、吉田松陰の
遺志を引き継ぎ、高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげん
ずい)、山県有朋(やまがたありとも)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、
木戸孝允(きどたかよし)、井上馨(いのうえかおる)などの明治維新で
活躍する人々が現れた。
1858年 吉田松陰が老中(ろうじゅう)の間部詮勝(まなべあきかつ)を暗殺を計画した罪により、
牢屋に入れられる。(安政の大獄 あんせいのたいごく)
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1859年 伝馬町(てんまちょう)の獄(ごく)で処刑される。(30才)
● 人 物 評
吉田松陰の功績は、30年という短い人生の中で、明治維新で活躍する高杉晋作(たかすぎしんさく)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、山県有朋(やまがたありとも)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、木戸孝允(きどたかよし)、井上馨(いのうえかおる)などの人物を育て上げた点であろう。松下村塾(しょうかそんじゅく)が単なる知識だけを与える塾(じゅく)であれば、このような人物は育たなかったのではないだろうか。吉田松陰は「何のために学問をするのか」という信念を持っていた。「学問をするのに大切なのものは志です。志のない学問など、何にもなりません。」 これを実践していたからこそ、明治維新で活躍する人物を育て上げることができたのであろう。吉田松陰が明治維新への道を切り開いたと言ってもいいだろう。そして、立派な教育者でもあったと言えるだろう。