勝 海舟 (かつ かいしゅう)
● 活やくした時代 1823年~1899年 江戸時代(えどじだい)
● 活やくしたこと
1823年 御家人の勝小吉(かつ こきち)の子として江戸で生まれる。
1840年 勝海舟が直心影流(じきしんかげりゅう)の島田虎之助(しまだとらのすけ)に剣
を学ぶ。
1848年 勝海舟が蘭学者(らんがくしゃ)の永井青崖(ながいせいがい)に弟子入りし、
オランダ語を学ぶ。
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蘭和辞典(らんわじてん)「ヅーフ・ハルマ」58巻を2部写したことは有名。
1853年 ペリーが来航する。
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勝海舟が「海防意見書(かいぼういけんしょ)を幕府に出す。
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幕府の老中(ろうじゅう)の阿部正弘(あべまさひろ)に見出される。
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1855年 勝海舟が蕃書翻訳掛(ばんしょほんやくがかり)になる。
勝海舟が海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)で学ぶ。
海軍伝習所…オランダ人から砲術(ほうじゅつ)、航海術、測量術を学ぶ学校
1860年 勝海舟が咸臨丸(かんりんまる)の艦長(かんちょう)としてアメリカに渡る。
1862年 勝海舟が軍艦奉行並(ぐんかんぶぎょうなみ)になる。
勝海舟が坂本龍馬(さかもとりょうま)と出会い、坂本龍馬が弟子となる。
1863年 勝海舟が神戸に海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)をつくり、頭取(とうどり)と
なる。
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坂本龍馬(さかもとりょうま)などに幕府単独の政治ではなく「諸藩の合議制(ごうぎ
せい…話し合い)」による政治のしくみを整えようという考えを伝える。
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坂本龍馬の海援隊(かいえんたい)や、「船中八策(せんちゅうはっさく)に影響を
与える。
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幕府をつぶす考え方とされて、勝海舟が免職(めんしょく)され、屋敷に閉じこめ
られる。
1864年 勝海舟が軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)になり、安房守(あわのかみ)をなのる。
1867年 江戸幕府が大政奉還(たいせいほうかん)を行う。
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幕府軍と新政府軍との戦争が起こる。
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1868年 勝海舟が陸軍総裁(りくぐんそうさい)になる。
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西郷隆盛(さいごうたかもり)と会い、江戸城の無血開城(むけつかいじょう)に力を
つくす。
【西郷隆盛(さいごうたかもり)との会見】
勝海舟は新政府軍の参謀の西郷隆盛と会い江戸城の無血開城
(むけつかいじょう)を話し合った。このときに問題となったのが、将軍
の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の処分(しょぶん)であった。西郷隆盛
は徳川慶喜を罰(ばっ)するつもりであった。しかし、勝海舟は、そのとき
には江戸に火をはなち、男たちがほうちょうで戦う覚悟があることや西郷
隆盛が主君の島津斉昭(しまづなりあき)を大切にすることと幕臣が主君
の徳川慶喜を大切にすることは同じことであると心に訴えて、徳川慶喜
の処分をやめさせた。こうして、幕臣の新政府軍への敵意をやわらげ、
江戸城の無血開城(むけつかいじょう)を成功させた。
1872年 勝海舟が参議(さんぎ)と海軍卿(かいぐんきょう)となる。
1887年 勝海舟が伯爵(はくしゃく)になる。
1899年 病死する。(77才)
● 人 物 評
勝海舟にとって、江戸幕府がどうなろうと将軍がどうなろうとよかったのではないだろうか。勝海舟にとって大切であったのは、これからの日本の未来であったのであろう。西郷隆盛と江戸城の無血開城(むけつかいじょう)の話し合いをした際に将軍の徳川慶喜の処分をやめさせているが、これは、幕府の武士を納得させるために仕方がなかっただけではないだろうか。江戸で戦争になって困るのは江戸の市民である。江戸の市民のためには、江戸城の無血開城(むけつかいじょう)は必要であったのである。勝海舟は、咸臨丸(かんりんまる)でアメリカに渡り、日本に帰ってきた時に、老中(ろうじゅう)にこのように言っている。「アメリカでは能力のある人間は身分に関係なく重要な仕事をまかされています。あなたがたのようなぼんくらが老中(ろうじゅう)をやっているなどと言うことはありません。」と・・・。勝海舟の功績は、アメリカの民主主義のしくみを日本に伝えたことであろう。