板垣退助 (いたがき たいすけ)
● 活やくした時代 1837年~1919年
江戸~大正(たいしょう)時代
● 活やくしたこと
1837年 土佐藩(とさはん 高知県)の武士の乾正成(いぬい まさなり)の子として生まれる。
土佐藩(高知県)の藩主の山内豊信(やまのうち とよしげ のちの容堂)に認められる。
土佐藩の倒幕派(とうばくは)の中心人物として活躍する。
1868年 倒幕軍(とうばくぐん)の参謀(さんぼう…戦争の指揮をする軍人)になる。
土佐藩の軍を指揮して、大きな手がらをたてる。
乾(いぬい)の姓を板垣(いたがき)の姓にかえる
1871年 板垣退助が参議(さんぎ…政治を行う役職)になる。
1873年 西郷隆盛(さいごうたかもり)とともに征韓論(せいかんろん)に賛成しやぶれたため、
参議をやめる。
征韓論(せいかんろん)
士族(しぞく…もと武士)を指揮して、朝鮮(ちょうせん)を攻めようとする考え
1874年 愛国公党(あいこくこうとう)をおこし、民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつ
のけんぱくしょ)を明治政府に出す。
民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)
国民が選んだ代表による国会を開き、国民の意思によって政治を行わなけれ
ばならないという考え
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自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)が広がる。
1875年 明治政府が自由民権運動をおさえるために、言論(げんろん)の規制を行う。
言論の規制 … 明治政府の悪口を書いたり、言ったりすると罰するということ
1877年 板垣退助が国会の開設を願う建白書(けんぱくしょ)を天皇に提出する。
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自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)がさかんになる。
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1880年 板垣退助が国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)を結成する。
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明治政府はいっそう自由民権運動をとりしまるが、おさえられなくなる。
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しかたなく、明治政府は10年後の1890年に国会を開く約束をする。
1881年 板垣退助が自由党(じゆうとう)の総理になる。
1882年 板垣退助が岐阜(ぎふ)で刺客(しかく)におそわれ、負傷する。
「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉をさけんだと言われる。
1884年 板垣退助が自由党を解散する。
1889年 大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)が発布される。
1890年 板垣退助が立憲自由党(りっけんじゆうとう)を結成する。
第1回帝国議会が開かれる。
1896年 第2次伊藤内閣の内務大臣(ないむだいじん)になる。
1898年 大隈重信(おおくましげのぶ)とともに憲政党(けんせいとう)を結成し、大隈内閣の
内務大臣になる。
1900年 政治から身を引く。
1919年 病 死(83才)
● 人 物 評
板垣退助(いたがきたいすけ)が、民主的な政府への礎(いしずえ)を築いたといえるだろう。そのころの明治政府は倒幕(とうばく)の中心であった薩摩藩(さつまはん)や長州藩(ちょうしゅうはん)の役人でしめられ、自分たちの思うがままの政治を行っていた。確かに明治政府の土台を確立するためにはどうしても専制的(せんせいてき)な政治を行う必要があったのであろう。だが、一方で役人の中には自分の利益のことばかりを考えているものも多かったのである。板垣退助にとっては、それは許すことのできないことであった。国民の考えを反映させた政府にするべきだと考えたのである。国民の考えを大切にし、それを政治に反映させようとした板垣退助の行動はすばらしいことである。