大隈重信 (おおくま しげのぶ)
● 活やくした時代 1838年~1922年
江戸~大正(たいしょう)時代
● 活やくしたこと
1838年 肥前藩(ひぜんはん 佐賀県、長崎県)の大熊信保(おおくまのぶやす)の
長男として生まれる。
1844年 大隈重信が藩校(はんこう 藩の学校)の弘道館(こうどうかん)に入る。
1856年 大隈重信が蘭学寮(らんがくりょう)に入る。
↓
藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)にオランダ憲法の講義をして、藩に
認められる。
↓
藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)に討幕運動に参加するように訴えたが
倒幕に動かないため、脱藩(だっぱん 藩から抜け出すこと)する。
1867年 大政奉還(たいせいほうかん)
江戸幕府が政権を朝廷にかえす。
王政復古を宣言する。
天皇中心の政治を行う。
1868年 大隈重信が明治政府の役人となり、外国事務局判事(がいこくじむきょくはんじ)
になる。
↓
キリスト教迫害事件にイギリス大使のパークスが抗議するが、一歩も引かず、
抗議を聞き入れなかったため、大隈重信の名が高まる。
1870年 大隈重信が参議(さんぎ 政治を行う役職)になる。
1873年 大隈重信が大蔵卿(おおくらきょう 財政を管理する役職)になる。
1878年 自由民権運動が高まる。
↓
国民が国会の開設を求めるようになる。
↓
参議の中で大隈重信だけが国会を開設することに賛成する。
↓
国会開設に賛成する大隈重信は明治政府の中で孤立する。
↓
1881年 開拓使(かいたくし 北海道の開拓を行う役職)の官有物(明治政府が管理して
いる物)のはらい下げで不正があり、参議を辞任する。
1882年 大隈重信が立憲改進党(りっけんかいしんとう)を結成する。
大隈重信が早稲田大学(わせだだいがく)をつくる。
1888年 第1次伊藤内閣の外務大臣になる。
黒田内閣の外務大臣になる。
1889年 大隈重信が江戸幕府が結んだ不平等条約を改正するために外国と話し合うが、
失敗する。
↓
その失敗のために青年に爆弾を投げ込まれ、右足を失う。
1896年 大隈重信が松岡内閣の外務大臣になる。
1898年 大隈重信が憲政党(けんせいとう)を結成する。
大隈重信が内閣総理大臣になる。
1907年 早稲田大学の学長になる。
1914年 大隈重信が再び総理大臣になる。
1922年 死 去(85才)
● 人 物 評
大隈重信は、政治家であり、教育者であるといえる。政治家の大隈重信は、江戸時代の末に結ばれた不平等条約の改正に力を尽くした。近代化して強大な軍隊をもつ外国を前に、恐れることなく対等な立場で話し合いをした。その話し合いに失敗し、投げ込まれた爆弾で右足を失っても政治家としての熱意を失わなかった。教育者としての大隈重信は、早稲田大学をつくり、日本の未来を担う若者を育成することであった。政治家であり、教育者でありと各方面に熱意をもって取り組んだ大隈重信のバイタリティーには敬服をする。大隈重信の功績は、日本の民主主義の基礎を築こうとした点であろう。