太宰治の小説に『満願』というのがある。なじみの医者の家で見聞きした話として描かれているのだが、薬をとりにくる若い女性は、病の夫との夫婦事を医者に禁じられている。
八月のおわりに、私は美しいものを見た、と太宰は書く。
——ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるまわした。
医者の奥さんがそっと囁《ささや》く。
「ああ、うれしそうね。けさ、おゆるしが出たのよ」
なかなか味な小説である。
じつは、わたしも今、満願を待ちわびている。もっとも、わたしの場合はそんな艶《つや》のある話ではない。
二十一日間の禁酒を自分に課した。もうすぐ満願なのだ。
それがどうした、といわれそうだが、少しおつき合い願いたい。
人間には誰にも泣きどころというものがある。
自分でいうのもなんだが、わたしは欲望を、かなり制御できるようになったと思っている。自ら律する心はあるつもりだ。
泣きどころは酒かなあと思う。
酒癖の悪い方ではないのだが、ついつい飲みすぎるとか、体調を考えて、今日はやめておこうと思っていたのに飲んでしまったとか、酒を飲んで、友だちにきついことをいってしまったとか、酒の上の後悔というものがどうしても残りがちなのが悔しい。
酒に負けているのが腹立たしいのだ。
それで一年に一回、三週間の禁酒を自分にいい渡す。肝脂肪が消える期間を一応の目安にしている。
酒を断ってみて、アルコールは薬物の一種だなと、つくづく思う。
禁断症状が出るのである。
症状は人によって違うのだろうが、わたしの場合、はじめの三日間、ほとんど眠れない。そこからの三日間ほどは逆になって、いつも眠気があり、一日中、頭がボーとしている。
一週間は相当つらい。
一定期間、酒をやめようとしても、たいてい、この間に挫折《ざせつ》する人が多いものと思われる。
ここをしんぼうすれば、後はラクだ。ラクというより心身きわめて爽快《そうかい》で、こんなに気持ちがいいのなら、いっそのこと、もうずっと酒をやめてしまおうかと思うくらいの「誘惑」を覚える。
朝、目覚めて、うーんと背伸びする、よかった、よかったと思う。
酒、飲むもよし、飲まぬもよし、オレは両方の快楽を勝ちとったぞ、と誇らしいのである。
酒のない人生もさびしいが、酒に追われる人生も、後ろめたい。
酒は、わたしにとって魅力もあるが、厄介な友だちでもあるというところが憎い。
今、満願の日に飲む酒と、酒の肴《さかな》をあれこれ考えている。これまた楽しい。