職業に貴賤《きせん》はないが、職業に人気、不人気はあると、どこかに書いてあった。なるほど本音と建前の違いかと妙に感心したことがある。
むかしのことになるが、わたしが教師をしていたころ、子どもたちに将来、なにになりたいかと問うと、たいていの子が、学校の先生、看護婦さんなどと答えたもので、その理由は人のためになり、喜んでもらえるから、と至極もっともな心がけだった。
それがいつのころからか野球の選手、歌手などとほざくようになり、近ごろにいたっては、デザイナー、イラストレーターなどと、こっちが、うへーというような職業をあげる。
これはあきらかに社会を反映している。
「人のためになり、喜んでもらえるから」が「カッコいいから」に変わっていく空虚な社会はいったいなんなのか。
わたしは定時制高校出身なので、四年間、さまざまな職業を転々とした。店員、外交見習い、港湾労働者、印刷工、電気溶接工、組合書記、なんでもやった。
もの書きになりたかったが、食って学校に通うためには、なんでもやらなくてはならなかった。
そういう時代だったんだ、と簡単にかたづけてもらいたくはない。
それが生きることであり、学ぶことであったのだ。
人と金という泥の海で、のたうちまわって、少しずつ人間と社会を知っていく。人のこわさも優しさも学んでいく。
人生はそうして成っていくものだろう。
カッコいい職業にあこがれる子どもや若者に、痛ましさを覚える。かりにそれが彼らの夢だとしても、夢をかなえるまでに、徹底的に自分を痛めつける勇気を持ってほしい。
若い人から手紙をよくもらう。
自分は何一つ不自由のない家庭に育ち、それに感謝しつつも自分がなにをしていいかわからず、どう生きてよいか悩む毎日です。そういう手紙がけっこう多い。
先方もそうだろうが、わたしも一つ、ため息を吐く。
親が子に接している態度を見ていると、ひたすら子どもをなだめ、子どもの言い分を吟味するでもなく、その場、その場を過ごしているようである。
学資を出すのも当たり前、結婚式も親持ちで、温室の花はそうして育っていく。
地味で苦しいことはやりたがらず、カッコいいことにのみあこがれる若者が現れても、これまでのつけがまわってきたと思うより仕方ないだろう。
子を責めるわけにはいくまい。
問われているのは、わたしたち大人である。
子に罪はない、という言葉が好きだ。これをしっかり受け止めれば、わたしたちはなにを為せばよいか、自ずと明らかになる。
今朝の新聞に載った雑誌の広告を見ていると、こんな活字が躍っていた。
壊れた教育、思考する力、育たぬ土壌、「読書」「遊び」「手伝い」を奪った罰。
子どもの亡霊は叫んでいる。
奪われた暮らしを返せ。