ピースボートが、その運動の十五周年を記念して、沖縄へ船を出した。
これまで世界各地を回ってきたのだが、まず足もとをしっかり見ようという趣旨である。
船内の丸一日は、勉強会だった。
わたしは自分の沖縄体験から、頭の先で早く沖縄をわかろうとするのではなく、心と体で沖縄を感じてほしいというようなことを話した。
前田哲男さんは、いわゆる新ガイドラインのきわめて危険な性格が、ふたたび沖縄を戦争に巻きこむおそれのあることを説いた。
石川|文洋《ぶんよう》さんは、写真家としての自分の仕事はすべて沖縄から発していることを語り、真喜志好一《まきしよしかず》さんはあらゆる命の共存を目指す平和の空間づくりの運動は、建築家であるわたしの仕事だとして、沖縄の環境破壊の問題点を明らかにした。
ピースボートの若者に会いたいと、ふたたび乗船してくださった元「従軍慰安婦」のイ・ヨンスさんは、自分の体験から、人が、お互いわかり合うことの大切さを訴えられた。
わたしはこれまで、ピースボートを若者の運動だといってきた。
たしかに、その主動力は若者だが、だからといって若者の運動体というのは、実態にそぐわないとわたしは思いはじめている。
今回のツアーも壮年、とりわけお年寄りの参加が多かった。
戦争のあとを訪ねて歩き、その責任問題を考えるというのは、古い世代ほど痛苦を覚えるはずである。
きわめてつらい「行脚」といえはしまいか。
それでもあえて参加された。
どの講座にも出席し、耳を傾けておられる姿を見て、わたしは感動を覚えた。
船が沖縄に着き、人々は、ノグチゲラの住むヤンバルの森へ、海上ヘリ基地案のある名護の辺野古へ、読谷《よみたん》、金武《きん》の米軍基地へ、「集団自決」という悲しい歴史の島々へと散っていった。
知るために、学ぶために。
わたしはわたしの住む渡嘉敷島へ、八十名の方々といっしょに渡った。
一日は島を回り、島の人の話をきき、つぎの一日はサンゴの美《ちゆ》ら(美しい)海を堪能《たんのう》してもらった。
ここでも、わたしはお年寄りの振る舞いに感嘆した。
八十三歳の、少し足もとの危なっかしい人がいた。
気を使って、わたしは「わたしの家でお休みになっていただいても……」と申し出た。
「いや、いや」と老人は微笑まれた。
静かに海に入り、ゆっくりと、まことに見事なフォームで泳ぎ出されたのだった。
「この島のどこかで弟は眠っています」
そういったお年寄りは、青い海に目をやりながらビールを飲んでおられた。
わたしは胸が熱くなった。
この人は、今、弟さんと二人で、二人っきりで、ビールを飲んでおられるのだ。
わたしはそっと、その老人から離れた。