船旅中、若い娘さんがわたしにいった。
「母を亡くしました。看病のために母に添おうとすると、母は、学校が大事だから……というので、母の言葉に従いました。さっき船酔いで苦しんでいるとき、誰か、そばに居てくれたら、この苦しみが少しでも軽くなるのではないかと思って、そこで母のことを思い、はっとしました」
娘さんの目に、少し涙がにじんでいた。
わたしは内心、ひどく狼狽《ろうばい》していた。
この前、死ぬときくらい人のしがらみを解いて、独りさっぱり逝《い》きたいという意味の文章を書いたばかりだったからである。
どう読んだとしても、あの文章は、この娘さんを傷つける。
ものを書くということのこわさを、またまたわたしは考えさせられた。
もの書きは、誰でも、そうだろうと思うけれど、もう書くことを、いっそ、やめてしまおうという誘惑にしばしばかられる。
ものを書く作業には、自分も他人も傷つける業のようなものがあって、どんなに吟味をしているつもりでも、おのれの甘えや甘さ、傲慢《ごうまん》や無神経さが、ぽろりとこぼれることがある。
それがたまらない。
もっとも、これは、もの書きだけのことではあるまい。人の言動のすべてにいえることではある。
よかれと思ってしたことが他人を傷つけ、浮かれて調子に乗っては他人を傷つけ、正直に自分をさらけ出したつもりが、やっぱり他人を傷つけ、それならばと一歩退いたら、それがまた他人を傷つける。
太宰治の言葉ではないが、「生まれてすみません」という気分になり、落ちこんだ経験は誰にもあるだろう。
ものを書いて、他人を傷つけると、これはもう地獄行きだと思って気が滅入《めい》る。
太宰治がふたたびブームだ。それに繋《つな》がってわたしごときのようなものにも仕事がくる。
受ける気にならない。
太宰の文学に溺《おぼ》れた時期がわたしにもある。あの眩《まぶ》しいような魅力を持つ文学は、おそらくこれからも多くの若者をひきつけるに違いない。
人の持つ羞《は》じらいや濃《こま》やかな感情、謙譲や偽善を憎む気持ちを、彼の文学から学ぶことはよいことだ。
他者が学び得る文学を完成させるまでに、太宰治という一人の人間は、自分も他者も、とことん傷つけたというまぎれもない事実が一方にある。
それを、どう考えるかである。
今のわたしは、それらを丸ごと肯定することができない。
そうは思いながら、自分もまた、文を書き、他人を傷つけていることを、これまた、わたし自身どう考えるのか。果てしもない道がただただ広がっている。途方にくれる思いがする。
しかし……と、わたしは気を取り直す。それを見つめ、悩むことでしか人間は人間に至らないのだと。