ほろ苦く思い出した話がある。
熱心な教師がいる。何事も疑問を持つところから学ぶことは始まる。一つでも二つでもよいから、毎日、なにか疑問を考えてくるように……。そんな宿題を出された。
少年は考える。真剣に考えたが何も思い浮かばない。先生の熱心さを思うと、どうにもつらくて学校を休んでしまう。そして考えた。
ようやく一つの疑問が頭に浮かぶ。少年は意気揚々と学校に行って、それを告げた。
「イカとタコが結婚すると、その生まれた子の足は何本でしょう」
先生は子どもにばかにされたと思って腹を立てる。少年は首筋をつかまれ、うす暗い理科準備室に、標本の骸骨《がいこつ》といっしょに立たされる。
反省しろ、という教師のことばを、少年は懸命に考え、そして思った。
(先生が怒ったのは、ぼくが小学生なのに、結婚ということばを使ったからだ。きっと、そうに違いない)
岩本敏男さんの『赤い風船』という作品に出てくる話だ。
航空券発売窓口で、禁煙席の窓側を取ってほしいと頼むと、たばこはお吸いになりますか、とたずねられたという話を書いたら、似たような体験があるという手紙がたくさん寄せられた。
マニュアルがあって、それをなぞっているだけだからそうなるので、自立的な判断の乏しい若者の増えたことを嘆く、という文面もあった。
あの文を書いてすぐ、またまた苦い場面にでくわした。飛行機に乗るために、搭乗待合室のいすに座っていたら、係員がいった。
「恐れ入りますが、そこはお子様ひとり旅(お子様パイロットといったのかもしれない。なにかそういう意味のことをいった)のお席に取ってございますので、お立ちくださいませんでしょうか」
呆気《あつけ》にとられた。
子ども優先か。子どもは立たせておけ。思わず怒鳴りつけたくなったが、かろうじて自制した。
老夫婦がいて、むっとした顔をした。立とうとしなかった。当然である。
それをいった係員はごく若い人だった。
ことばづかいからして、マニュアル通り仕事をしているのだろうが、情けない。
子どもを大事にするということは、そういうことでは断じてない。
マニュアル化した若者を嘆く気持ちが、わたしにないわけではないが、その若者を非難するよりは、彼や彼女らが、そんなふうに育てられ、仕向けられていく元のところのものに目を向け、吟味が加えられるべきではないかと思う。教育の問題もそうだし、企業のあり方も問われるはずだ。
先の目撃は、武士の情け? で航空会社名は出さないが、すべての航空会社は一考も二考もしてもらいたい。
儲《もう》け優先の心根が、人も社会もねじれたものにしてしまうのだから。
イカとタコの少年は、今、どんなふうに成長し、この社会を、どう見ているのだろう。