子どもの本がきわめて不振だ。わたしが見ても危機的な状況だと思う。
書店の、児童書の売り場面積はこれ以上減らしようのないほど狭められ(児童書のまったく置かれていない本屋は山ほどある)、出版社は学校回りなどでかろうじて食いつないでいる有り様である。
倒産しないのが不思議なほどだ。
それにともなって、子どもの本の書き手も(文章を書く方と絵を描く方の両方の人々がいる)困窮をきわめることになる。
初版部数四、五千冊というのはざらで、子どもの本は、そうそう再版がきかないから、年に三、四冊出版しても、年収はせいぜい二百万円くらいということになる。画家にいたっては、そのまた二割、三割だ。
これではとても食べていけない。
ひどい時代になったものだ。
売れるものを売る、売れるものだけを売るという風潮は、野放図な商業主義に抵抗力を持たない子どもの文化を壊滅させようとしているわけである。どこが文化国家なのかと思う。銀行の倒産より、こちらの破滅状態の方がよほど深刻だとおもわれるが、税金をつかって銀行の救済はしても、未来を担う子どもたちの心の糧は枯渇寸前なのに、知らんぷりをする。
学校図書館に一定量の蔵書を義務づけ、予算化するだけでも、この危機は大幅に緩和されるのに。
ファントムか、なんか知らないが、そういうもの数機分の金で、このことが可能なのだ。
どうか政治家のみなさん、どの政党からでもよいから、早々に、これを提案してもらいたい。次の選挙で得するよ。
本はなくても子は育つが、育ち方はだいぶ違うというのが、わたしの見解である。
本を読むことによって与えられるものは、無限の自由であり、魂の飛翔《ひしよう》である。ひとたびその世界に入りこめば、あらゆる人生を生きることができるし、何に変身することも許される。想像力もまたそこできたえられ、深い人間に至る道がひらかれる。
そのような自由を獲得するために本は読まれるのだから、間違っても読書に性急な教育的価値を求めたり、いちいち読書感想文を子どもに強いたりしてはならないのは自明のことである。
少し乱暴にいって、子どもたちの読書環境をじゅうぶんに整えてやり、読ませっぱなしにさせればよろしい。
現実の世界は、不自由の世界ともいえる。
ものごとが思ったようにいかず、挫折《ざせつ》をくり返す。人生とはそういうものだ。
誰でも立ち向かわなくてはならない困難には、勇気とねばり腰がいる。そのエネルギーの源は、想像力だろう。
思いを巡らし、あれこれ考える人間は、短絡しないし、一直線に事を運ばない。
必然的に他者を思いやる。
読書が、子どもに与えるものは、きわめて大きいのだ。