かっこいい、と若者たちが関西弁を日常会話に挟みこむのが流行《はやり》だという記事(一九九八年十月五日付「朝日新聞」家庭面)を興味深く読んだ。
ま、目くじらを立てるほどのことでもないか、と思わなくもないが、生粋《きつすい》(?)の関西人としては下手に関西弁をつかわれると、背筋がむずむずしてくる。
朝の連続ドラマにひどいのがあった。
「こら、やめんかい。ええかげんにさらせ」
と思わずいいたくなった。
言葉を弄《もてあそ》ぶのは、いい傾向とはいえない。
国語教師の札埜《ふだの》和男さんが
「言葉の交流は悪くないが、昔ながらの関西弁への理解も表面的になるのは寂しい」とおっしゃっていたが、同感である。
おとうさん
六歳 もとおかしんや
ぼくがあそんでいるとき
ちんちんけがしてんで
それでおとうさんに
はんだぷらすと はってもろうてんで
おとこどうしやで
微笑ましい詩だが、この詩のすばらしさは関西弁の魂をしっかり受け継いでいるところである。
関西弁の魂って、なんや、と問われると一言で答えにくいが、人と人が、すらっと仲良しになってしまうようなところとでもいえばよいだろうか。
人をおちょくったり、卑俗な笑いをとるための道具としての言葉からは、はるか遠いいのちの平等感(観)のようなものが、ほんとうの関西弁には流れているのである。
そこを伝えるのでなければ、真の言葉の交流にはならない。
たしかに現代の言葉づかいは乱れている。言葉は生きものだから、ある程度の変化はやむを得ないとしても、その精神を伝承せず、表層のもののみに終われば、ある主の文化破壊につながりかねない。
言葉の精神は理屈で伝えることはできない。
つまり言葉は、言葉そのものによってしか何も伝えることはできないのだ。
笑福亭鶴瓶《しようふくていつるべ》さんのおしゃべりの中に、わたしはその精神を見る。
関西弁と一言でいうが、京都、大阪、神戸と、それぞれ違いがあった。
テレビ、ラジオの功罪だが、今は、それが入り雑《ま》じり、均《なら》されてしまった。
亡くなられた大岡昇平さんの奥様が、わたしがテレビに出ると、ふるさとの懐かしい神戸弁がきけるといって、チャンネルを回された、と人づてにきいた。
わたしは言葉づかいに関しては頑固だ。
日常もそうだが、講演やテレビででも、地の言葉丸出しである。
そのせいでもあるまいが、昔の神戸弁が残ったものと思われる。
方言を大切にしない国は、その文化もやせ衰える。日本は今、危ないところにいるのではないか。