二年ぶりに韓国を訪れた。繁華街の明洞《ミヨンドン》は人々であふれ、伝えられる不況が嘘のようだった。少なくとも表層は——。
わたしが最初に、この国を訪れたのは今から二十七年前である。以後、激動と、そして経済成長を目の当たりにしてきた。
民主化闘争の折、連帯の文章を、雑誌『世界』に書いたため、七年間、ビザがおりなかったこともあった。今は、当時迫害された人が、この国の大統領(金大中《キムデジユン》氏)である。
今回、訪ねた目的の一つは、わたしの著作を翻訳、出版してくださっている張義均《チヤンウイギユン》さんに会うことだった。
張さんは、かつての政治犯である。転向を拒否したために八年間、獄につながれた。獄中で、わたしの『太陽の子』を訳してくださった。官憲の妨害に抗議し、ハンストまでして完成されたときく。
張さんとは初対面ではない。ほんとうに信じられないことだが、二年前の、前回訪韓のときに鐘路《チヨンノ》の街でばったり出会った。
ばったり出会ったといっても、わたしは張さんを知っているわけではない。張さんの奥さんが、わたしを見つけて声をかけてくださったのだ。(わたしの写真を見て、しっかりイメージしていたという)
なんということだろう。なんという縁だろう。手をとり合って、お互い震えるような気持ちで、いっとき熱く話し合った。
今回は、事前に約束をかわし、食事をとりながら、ゆっくり話した。
張さんは驚くほど柔和なお顔だったが、鐘路で出会ったときは、まだ保釈中の身で、そのせいか、いろいろな辛苦が全身から滲《にじ》み出ておられたように思う。
こんど、はじめて知ったことがある。張さんが、わたしの本を訳そうとしたのは、出版が目的ではなかったということだ。
わたしに『とんぼがえりで日がくれて』という童話集があるが、張さんは会うことのかなわない幼い我が子に、その童話を与えようとして、はじめられた仕事だという。
わたしは、深くうなずいた。
張さんは、自分の思想遍歴をあれこれ語ってくれた。
『橋のない川』住井すゑ、『荷車の歌』山代巴《やましろともえ》を読み、国を愛することと、肉親や身近な人を愛することの意味を、改めて考え直したというふうにもおっしゃっていた。
それは現在の張さんの仕事にも反映されているようだ。
張さんは、今、都心から遠く離れた茂朱《ムジユ》という所で「文化の村」の創設に関与されている。
自然農法的な農業と芸術活動をいっしょにさせたようなコミューンらしい。
チャンゴ(大鼓)打ちの名人の報酬が十万ウォン(日本円で約一万円)で、そのような芸術家の待遇改善にも力を注いでいるといっていた。
張さんは今日の時代に触れて何もおっしゃらなかったが、張さんの生き方そのものが、現代社会の批判のように、わたしには思えた。
すごい人はどこの国にもいるものである。