眠れぬ夜、一冊の本を読む。
このエッセイでも紹介した張義均さんの書かれた『わたしたちの子どもの国は』(行路社=電話〇七五−七二三−七二五一)という本だ。
張さんが獄につながれると、日本でも支援する会ができ、獄中からの手紙を中心に、この本が編まれた。
冒頭、彼の書いた童話が十数編載せられている。
赤とんぼを追う幼児の話などは、彼の子ども観、自然観がよく出ていて傑作である。
張さんが子どもや奥さんに宛てた手紙は、さすがに読んでいてつらい。
ヨリム!
よい本をたくさん読んでほしい。チュホと高飛びごっこや、大声を出し合う遊びも一緒にし、勉強も一緒にしてやっているかい? いつも友だちと仲良くして、母さんのお手伝いもするんだよ。チュホ、新年には一年生になるんだろ? うれしいなぁ。
体が丈夫になるためには、もっともっと跳ばなくちゃならないぞ。もう、お腹に力を入れて大きな声も出せると聞いて、父さんはすごくうれしい。今は父さんは毎晩、チュホの名前を大声で呼んでから眠るんだよ。チュソギ! 字の勉強をたくさんしたかい? 会いたい。
ぼくがきみに「これからぼくは大田《テジヨン》へ行くことになるから(受刑生活をおくる所と思われる)覚悟しなさい」と言ったとき、きみは目をうるませた。で、泣くなって言ったら、きみはぐっとこらえて、まるで幼子のようにぼくの前で気をつけの姿勢をしてみせながら、落ちつき払った表情をつくろってくれた。いまにも泣きくずれそうなのをやっとの思いでこらえているとでもいおうか。
ぼくは、わが子を叩《たた》きながら、泣くんじゃないと言ってやるときのように、やり切れない気持ちに襲われ、気をつけの姿勢でつっ立っているきみの姿を見つめながら、ぼくは、これまでずっと共に暮らしてきた、そしてこれからも共に生きる人生を思い浮かべ、心で泣いた。
張さん一家の絆《きずな》を思い、わたしたちもまた目をうるませるほかないのだが、この一家の不幸の源が我が国から発していることを考えると、まことにつらく身をきられるほど切ない。
張さんはいう。
わが民族が平和的な統一をなし遂げるためには、相手をなじったり非難したりするまえに、まず相手を尊重する相生《そうせい》の論理が必要であるということも、誰もがよく知っていることでしょう、と。
そういわれ恥じ入らなくてはならない政治家が、我が国にはなんと多いことか。民族学校の生徒に罵声《ばせい》を浴びせる日本人が一人でも存在するかぎり、わたしたちは恥を知る民族とはとうていいえないではないか。
——もし民主主義に対する本質的な基準があるとすれば、それは、人のからだ(現実、国民)とあたま(理念、政権)をひとつにならしめるわれわれのこころ(実践、民主主義)に求められるべきでしょう。
張さんのこの言葉を深くかみしめたい。