駅前に人だかりがしている。かえりをいそぐ小谷先生はそれをさけて通ろうとした。三歳ぐらいの子どもが泣きじゃくっている。母親が引き立てるのだが、子どもは大地にしがみつくようにして泣いている。
小谷先生はのぞきこんでみた。
ダンボールの中に、赤や青のヒヨコがおしあいながらにぎやかにないていた。となりにたらいがあって、五センチくらいのミドリガメがごそごそはっている。子どもはそのどちらかをほしがって泣いているのにちがいなかった。なるほど子どものほしがりそうなものだと小谷先生は思った。それにしてもどうしてヒヨコが赤いのだろう、青いヒヨコなんていたのかしらん。よく見ると、ヒヨコはなにかの染料でそめられているのだ。ところどころはげかかっていて、そこから黄色い毛がさびしそうにのぞいていた。いやなものを見たと小谷先生は思った。
泣きじゃくっていた子どもの声が小さくなったと思ったら、その子は母親の手を引いて人ごみの中へはいっていった。いくらかのお金とひきかえに赤と青のヒヨコを箱につめてもらっている。手わたされて子どもはにーと笑った。いやな笑いだと小谷先生は思った。そしてふと夫のことを考えた。
ふたりで西大寺にいったことがある。
夏の雨で西大寺はあでやかだった。
「雨のお寺って、わたしたち運がいいわ。ほら緑がいまにもとけて落ちそうよ」
小谷先生ははしゃいでいった。
土べいについて話をしたり、西大寺の竹の美しさについて議論をした。本堂では、ふたりの興味がちがった。小谷先生はあいかわらず善財童子のファンだ。
「どうですか、わたしちょっとは美しくなりましたか」
すこしばかり自信のある小谷先生は、善財童子にそんなことを話しかけた。
夫は本尊の釈《しや》迦《か》像《ぞう》が好きだ。衣の線があやしくて美しいという。
「そういえば、このお釈迦さん、なかなか美男子ねえ」
小谷先生は寺の住職がきいたら顔をしかめそうなことをいった。
「ひみつの場所を教えてあげましょうか」と小谷先生は夫にいった。
塔のあとを右にすすむと小さな池がある。その辺はかん木が多くて、あまり人が近づかなかった。池のよこに小さな石仏がならんでいるのだった。ひなびた風景が好きで、小谷先生はよくここへ足をはこんだ。
「この景色いいでしょ」
「うむ」
夫は短い返事をした。
「ここの石仏おもしろいのよ。尊厳さなんてちっともないの。あっちにいるオッチャン、こっちにいるオバチャンといった顔をしているわ」
と小谷先生は夫の方をふりむいた。夫はぼうと立っていた。夫の眼はなにも見ていない眼だった。考えごとをしているらしいのだが、口もとがひらいている。夫のそんな顔を小谷先生は見たことがなかった。
ふいにのっぺらぼうの顔を見たような気味のわるいものを小谷先生は感じた。
夫の友だちがひんぱんに小谷先生の家をおとずれるようになった。仕事の話をしているようだった。小谷先生は学校からかえったばかりでつかれていることが多かったが、つとめて笑顔で接待した。自分も学校の仕事が行きづまったとき、足立先生や折橋先生に相談にのってもらった、そのときのことを思い出して笑顔をたやさないようにつとめた。
そんなことがつづいて、ある日、夫はいった。
「友だちの事業に出資してやりたいのだが、おとうさんからもらった土地を担保にしてお金を借りてはいけないかな」
夫はいずれいまの会社をやめて、その会社を共同で経営するのだともいった。
いいでしょと小谷先生はいった。家を建てることだけが目的の無気力なサラリーマンになるより、失敗をしても力いっぱい生きる人の方がいいと小谷先生は思っていた。
ちょうどみな子が小谷学級にはいってきたころ、夫は主任になった。その祝いの会を小谷先生の家でもった。おきまりのお世辞と、遊びの話ばかりでその会はおわって夫はつかれていた。小谷先生はふとんを敷きながら、
「あなたもたいへんね」
となぐさめるようにいった。夫はふいに小谷先生をだきしめながら、ささやいた。
「はやくおまえにラクをさせてやりたいよ。学校に勤めるのももうすこしのしんぼうだからね」
小谷先生は仰天した。いったいこの人はなにを考えているのだろう。小谷先生は夫の善意を傷つけないために、それにたいしてなにもこたえることができなかった。
赤いヒヨコも青いヒヨコもなき声は同じだった。自然のままの黄色いヒヨコも同じ声でなくだろう。声まで染められない、そう思うと毛を染められたヒヨコのなき声は精いっぱいの抵抗のように思われた。
人間が生きるっていうことはどういうことだろう、ふたりで生きるということはどういうことだろうと小谷先生は思った。
家にかえると、夫は青ざめた顔をしてげんかん口に立っていた。小谷先生の顔を見るなりいった。
「おまえ、たいへんだよ」
「どうしたの」
「どうしたもこうしたもあるもんか、ドロボーだよ、ドロボーにはいられたんだ」
なるほど家の中は警官でいっぱいだった。部屋の中はものの見事にちらかっていた。白衣を着た人がタンスのあちこちに白い粉をふりかけている。犯人の指紋をとっているのだろう。小谷先生も両手にべったりインキをぬられた。
「なぜわたしが指紋をとられなくちゃいけないんですか」
「は、犯人のものと区別するためです」
若い警官がこたえた。
ぬすまれたものをいちいち報告しなければならなかった。大きなものは思い出せたが小さなものはよくわからない。すると、そばにいた夫がてきぱきと品物の名をいった。内心、小谷先生はおどろいていた。家のことは女の方がよく知っているものだが、わたしの家はまるで反対だ。
それにしてもよくこんなにごっそりもっていったものだと小谷先生はしまいにはおかしくなってしまった。
「奥さんのおうちは共かせぎですね」
「はい」
「共かせぎのおうちはとくに気をつけてもらわないとこまりますよ」
「はい」
返事をしたものの小谷先生はバカらしくなった。なにを気をつけるのだ、戸じまりをして出ていった者になにを気をつけろというのだろう、それにどうして、共かせぎの家はとくに気をつけなくちゃいけないのだ、いうべきことがさかさまのような気がした。
夫は頭に手をやって、さかんに恐縮している。腹が立つので小谷先生は夫の服をぐいと引っぱった。
「きれいさっぱりなくなっちゃったわね」
警官がかえってから、小谷先生はむしろほがらかにいった。こんなことで家の中が暗くなってはかなわないと思っているのかもしれない。
「ちぇ」と夫は舌打ちした。
男だからグチはこぼさないが、いらいらしているようすがよくわかる。預金通帳とか証書の類など、届ければ被害がふせげるものを、なんどもねんをおすように小谷先生にたずねている。
「わたし、あなたに買ってもらった真珠のブローチがおしかったナ」
と小谷先生はいってみた。夫はまっていたように、つぎつぎと品物の名を口にした。小谷先生はひそかに後悔した。
三日めに犯人はあっけなくあがった。
食事をしているとチャイムがなった。小谷先生が出てみると、刑事や警官数人と、背の低いみすぼらしい男が右の手に手錠をかけられて立っていた。小谷先生は息がつまった。
「天井にぬすんだものの一部をかくしているらしいんです。こんな時間にもうしわけありませんが現場検証をさせてもらえませんか」
「どうぞ」
小谷先生はテレビドラマでもみているような気がした。
男の手にかけられた手錠が白くぶきみに光って、小谷先生は気が遠くなりそうだった。
天井板はかんたんにはずれた。そこに住んでいる小谷先生の知らないことだった。そこから、小さくて値のはる品が数点出てきた。小谷先生が口にした真珠のブローチもあった。
「どうしてそんなところへかくしたのかな」
夫がひとりごとのようにいった。
「なあーに、なにかのもの音におどろいてあわててかくしたんでしょう。気の小さい男ですよ」
とひとりの警官がバカにしていった。そして、おい、とその男をこづいた。男はあわてて土下座した。
「申しわけありません」
「は、いいえ」
思わず小谷先生はいってしまった。警官たちは吹き出した。小谷先生はまっ赤になってしまった。
「家から出たもんだから、盗品ともいえませんな。ほんとうは手続きがいるんだが、ま、ここでお返ししときます」
品物は夫が受けとった。
犯人がげんかんに出たとき、小谷先生ははじめてその男の顔を見た。老人のような顔だった。眼をしょぼしょぼさせて、たえずおろおろしていた。男が頭をさげて向きをかえたとき、小谷先生はあっと思った。男は左手がなかった。戦争でなくしたのだろうか、それとも交通事故だろうか、小谷先生は引かれていく男のうしろ姿を見つめた。さむい気がした。
「あんな人生もあるんだね」
夫もしみじみいった。小谷先生はぺったりたたみにすわった。いまかえしてもらったばかりの真珠のブローチがにぶく光っていた。そんなものをもっていた自分がいけないように小谷先生には思えた。
「でも、もどってきてよかったな」
夫はあたりまえのことをいっているのだったが、どうしてか小谷先生はそのとき夫ににくしみをおぼえたのだった。
つぎの日の夜、処理所の子どもたちが小谷先生の家にやってきた。
「こんばんは」
功も芳吉も、四郎も徳治も顔を出した。
「こんばんは先生」
純も恵子も顔をつき出した。
「あれあれ、いったいなん人できたの」
「みんなや」
「みんな?」
しげ子、武男、浩二、みさえとぞろぞろはいってきた。
「ヒャー、ほんとにみんなできたのね。いないのは鉄三ちゃんだけじゃないの」
小谷先生はおどろいていった。
「鉄ツンもきてるで先生」
えっと小谷先生はびっくりした。
「こら鉄ツン、はよ、あがらんかい」
と功がいった。小谷先生が外へ出てみると鉄三は戸のかげでもじもじしていた。
「まあ、鉄三ちゃんもきてくれたの。先生うれしいわ、さあさあはやくあがって」
小谷先生は鉄三の手を引いた。鉄三ははにかんだような表情になった。鉄三がそんな顔をするのを小谷先生ははじめて見た。
子どもたちはぎょうぎよくすわっている。だいぶ親にいいきかされてきたとみえる。みんないまにも笑い出しそうなくらいにこにこしていた。
さわぎにおどろいて、となりの部屋から夫が姿を見せた。子どもたちはちゃんとあいさつをした。
「先生のおムコさんか」
功がたずねた。
「そうよ」
「男まえやなァ」
「純ちゃん、それおせじ」
「ちゃうでえ、ほんとのこというてんねんで」——純はむきになっていっている。
夫は銭湯にでもいくといってでかけていった。でかけるとき、小谷先生をひどく傷つけることばをはいていったのだった。
「先生の家、ドロボーにはいられたわりにはちゃんとかたづいているね」としげ子がいった。
「でも後かたづけがたいへんだったんよ」としげ子の質問に小谷先生はこたえた。
しげ子のことばを合図のようにして、みんな袋やふろしきの中から、ごそごそなにかをとりだした。
「これ、処理所のおじちゃんやおばちゃんから」
と功がさしだしたものは、おみまいとかかれた封筒だった。なかに、かんたんな手紙と二万円がはいっていた。
〈先生、えらいめにあいましたね。ドロボーぐらいでまいるような先生やないと思うけれど、がんばってください。これはみんなの気持です〉
純が小谷先生の前においたものは、小さなカエルの貯金箱だった。
「これあげる」とはずかしそうな顔をしている。
みんなつぎつぎ、小谷先生の前にさしだした。貯金箱があったり、封筒があったりした。芳吉などは自分でこしらえたと思われる木の貯金箱をおしげもなく小谷先生の前においた。
鉄三もひもに通した五円玉を重そうにおくのだった。
この子どもたちが、いいあわせたようにお金をもってきたのは、よくよく考えた上でのことだろうと小谷先生は思った。
「先生、ごはんは食べられるか。なんやったらぼくのお金でお米買いよ」と徳治はいった。
そういわれて小谷先生は気がついた。もし自分たちの家にドロボーがはいったら、その日から食事もできなくなる、徳治はそういっているのだ。
「うれしいわ」小谷先生は涙声で礼をいった。
子どもたちはドロボーを一言も非難しなかった。小谷先生の身だけを案じてくれていたのだった。
夫はでかけるとき、子どもをはやくかえせといった。おれは子どもがにがてだから、といったが小谷先生はもうそのことばをきいていなかった。
小谷先生は赤いヒヨコを思った。
ほんとうの毛がうすよごれて見えるかわいそうな赤いヒヨコを思った。