当の清瀬は練習後に、どこかへ出かけていった。食事当番はニコチャンとジョータだ。
酒の肴になるものを、台所でいっぱい作っているところだろう。手伝おうかと、走が双子
の部屋を出て階段を下りかけたところで、携帯電話が鳴った。表示を見ると、仙台の自宅
の番号だった。
上京してから、親が走に連絡を取ってきたことは一度もない。竹青荘の住所は葉書で一
応知らせたが、それきりだった。学費と、最低限の生活費を銀行口座に振りこんでくれる
だけでも、よしとしなければならない。両親は、走が陸上推薦で大学に行くことを望んで
いた。品行方正な陸上選手としての息子に、期待をかけていたのだ。
通話ボタンを押すと、「走?」となつかしい母親の声がした。
「うん」
「あんた、雑誌に書かれてたじゃないの。もう目立つことはするなって、あれだけ言って
聞かせたのに。お父さんも怒ってるわよ。聞いてんの」
「うん、ごめん」
「こっちで暮らしてる私たちの身にもなってちょうだいよ。いい?」
「はい」
「年末年始はどうするの、帰ってくるの」
「いや、箱根に出るから、帰る暇はないと思う」
「あらそう」
母親の声は、明らかに安堵を含んだものになった。「じゃ、いいけど。元気でね」
通話の切れた携帯電話を握りしめ、走はしばらく、階段の半ばで突っ立っていた。ぼん
やりしていたため、玄関にユキがいることに気づくのが遅れた。
「あー、悪い」
と、ユキは言った。「立ち聞きするつもりはなかったんだけど」
ユキの手には、下北沢にあるレコード屋の袋が提げられていた。どんなに忙しくても、
ユキは生活から音楽を欠かしたことがない。走は「かまいません」と答え、階段を下り
きってユキと同じ廊下に立った。
「実家から?」
「はい。目立つことするなって怒られました」
「時のひとだからね」
ユキは笑った。ユキになら、言ってもいいかもしれない。ユキだけが、これまで取材を
喜ぼうとしなかった。重苦しい思いをだれかに聞いてほしくて、走はわざとなんでもない
ことのように打ち明けた。
「俺、親とうまくいってないんですよ」
ユキはちょっと黙り、
「そうか。俺もだ」
と言った。「うちの場合は、過保護っていうのかな。お袋が再婚してね。相手は悪いひ
とじゃないし、年の離れた妹もいて、かわいくないわけではないけど……。いまさら新し
い家族だと言われて、あれこれ気をつかわれても、こっちとしても困る。ま、あまり近寄
りたくないというのが、正直なところだね」
「妹さん、いくつなんですか」
「五つ」
「え、じゃあユキ先輩とは、十五以上離れてるじゃないですか」
「そうだよ。お袋も頑張ったものだな」
ユキはやれやれというように、眼鏡を指で押しあげた。「家族には煩わされると相場が
決まっている。期待しすぎず、適度な距離を置くように心がけることだね」
ユキは自室のほうへ歩いていった。アドバイスしてくれたらしい。走は「はい」と答
え、最前から水音やら鍋の落ちる音やらで騒がしい台所を覗こうとした。するとユキが、
「そうだ、走」と廊下を戻ってきた。ちょっと、と走は廊下の隅に手招きされる。
「帰ってくるときに、成城の駅でハイジを見かけたんだ」
なにか買い物でもあったのだろうか。急行が停まる駅ではあるが、走たちはそんなに頻
繁には成城に行かない。どちらかというと、庶民的で雑多な雰囲気のある祖師ヶ谷大蔵駅
に出ることが多かった。
「あいつ、成城の駅前にある整形外科に入っていったよ」
走はぎくりとした。清瀬の右脛を走る、古い傷跡。予選会のあとにも、つらそうにして
いたのに。練習と取材騒動で、すっかり忘れてしまっていた。
「俺は、陸上選手の故障について詳しくないが」
ユキは眉をひそめる。「もしかしてハイジのやつ、完治してないんじゃないか」
どんなスポーツでも、一流選手ほど、どこかしら故障を抱えているものだ。陸上も例外
ではない。ハードなトレーニングは、つねにリスクと背中合わせだ。鍛えれば鍛えるほ
ど、肉体は鋭敏に、繊細になっていく。
「医者にかかってるなら、無茶をしたらストップをかけられるでしょうから、逆に安心だ
と思いますけど……」
「ハイジが医者の言うことなんて聞くか? 特にこの時期に」
それもそうだ、と走は思った。医者に行ったということは、それだけの違和感、もしか
したらはっきりした痛みがあるのだろう。痛みを抑える処方を要求はしても、医者からの
忠告を、清瀬が聞き入れることはないような気がした。
「わかりました。あとで俺から、ハイジさんに聞いてみます」
走はユキにそう請けあった。
清瀬は、いつのまにか竹青荘に帰ってきていた。湿布のにおいがしないかと、走は清瀬
のまわりで注意深く鼻をひくつかせたが、証拠はなにもつかめなかった。
「おかしなやつだな」
と清瀬に言われただけだった。
「ここのところ、いろいろ周囲が騒がしいが」
清瀬は、双子の部屋に集った面々を見まわす。「まあ、気にするな。俺たちは、走りで
答えを出せばいい」
「ハイジさん、かっこいい!」
「『うちの蔵原に、なにか?』」
すでに酒が入った双子が茶化す。『週刊真実』の記者との一件から、双子は清瀬への信
頼を取り戻しつつあるようだった。
「ついに十一月も終わろうとしている。箱根駅伝まで、もう時間がない」
清瀬は双子にはかまわず、話をつづける。「これからは、体調管理がもっとも大事に
なってくる。最後の最後で故障しないよう、気をつけてくれ」
故障という言葉に、走は思わず、ユキと視線を交わした。
「走、箱根のエントリーについて説明を」
と清瀬に言われ、走は心配事をとりあえず頭から振り払う。車座になった住人たちが、
走に視線を集中させる。
「エントリーはまず、十二月十日に、一チームにつき十六人までの名を主催者に提出しま
す」