二月(きさらぎ)一日。あしたの間(ま)、雨降る。午刻(むまとき)ばかりにやみぬれば、和泉のなだといふ所よりいでてこぎ行く。海の上、きのふのごとくに、風波(かぜなみ)見えず。黒崎の松原を経て行く。所の名は黒く、松の色は青く、磯の波は雪のごとくに、貝の色は蘇芳(すはう)に、五色(ごしき)にいま一色(ひといろ)ぞ足らぬ。この間に、けふは箱の浦といふ所より綱手(つなで)引きて行く。かく行く間に、ある人のよめる歌、
玉匣(たまくしげ)箱の浦波立たぬ日は海を鏡とたれか見ざらむ
また、船君のいはく、「この月までなりぬること」と嘆きて、苦しきに耐へずして、人も言ふこととて、心やりに言へる、
引く船の綱手の長き春の日を
四十日(よそか)五十日(いか)までわれは経にけり
聞く人の思へるやう、「なぞ、ただごとなる」と、ひそかに言ふべし。「船君のからくひねりいだして、よしと思へることを、ゑじもこそしたべ」とて、つつめきてやみぬ。にはかに風波高ければ、とどまりぬ。
(現代語訳)
二月一日。朝早くに雨が降る。正午ごろに止んだので、和泉のなだという所から出発して漕ぎ行く。海の上は、昨日と同じに風も波もない。黒崎の松原を経て行く。場所の名は黒だが、松の色は青く、磯の波は雪のようであり、貝の色は暗紅色で、五色にあと一つの色が足りない。ところで、今日は箱の浦という所から引き綱を引いて行く。そうして行く間に、ある人が詠んだ歌、
<箱の浦に波が立たない日は、誰がこの海を鏡と見ないだろうか、誰もが鏡と見るだろう。>
また、船君が言うには、「もうこの月(二月)になってしまったよ」と嘆いて、苦しさに耐え切れず、人も詠んでいるからと気晴らしに詠んだのは、
<引いて行く船の引き綱のように長い春の日を、四十日五十日も私は過ごしてきたよ。>
それを聞いた人は、「何とも平凡な歌だろう」と思い、ひそかに言ったに違いない。「船君がやっとひねり出してよいと思っているのに、怨まれてはたいへんだ」と、仲間だけでひそひそささやいて終わった。急に風が出て波が高くなったので、その地に停泊した。
(注)玉匣 ・・・ 「箱」の枕詞。