しばらく、文江はポカンとしていた。
「メモって——」
「あなたが手に入れたって聞いたわ。金子さんからお金を借りていた人のメモよ」
「どうしてあなたが——」
「主人の名前も入ってるの」
「ご主人の?」
文江は目を丸《まる》くした。そういえば、あの紙を、細かくは見ていないのだ。
「じゃ、ご主人もお金を借りていたの?」
「ええ。でも、変なお金じゃないわ。——仕方なかったのよ。学校の経《けい》理《り》で、ちょっと穴《あな》をあけてしまって」
「それを埋《う》めるために?」
「そうなの」
百代は、思い詰《つ》めた目で、文江を見つめていた。「——お願い! あの紙をちょうだい!」
「そう言われても……」
「あれが公表されたら、主人はクビになっちゃうわ!」
それはそうかもしれない。——文江としても、辛《つら》いところだった。
「でもね、百代、あれが事《じ》件《けん》を解《と》くための、鍵《かぎ》になるかもしれないのよ。それに、警《けい》察《さつ》だってやたらにそんなものを公表したりしないわ」
「分るもんですか!——そんな話は——いつの間にか、どこからか広まって行くわ。あんな小さな村ですもの。文江、友達でしょ? お願い。——この通りよ」
「やめて。手を上げて。ねえ……。私だって、この事《じ》件《けん》を解《かい》決《けつ》しなきゃならないのよ、分って」
「何が事件よ!」
と、百代は立ち上ると、叫《さけ》ぶように言った。「何年も昔《むかし》のことをほじくり返して、せっかくみんなが平和に暮《くら》してたのを引っかき回して、何を気取っているの!」
「百代……」
「あなたはもう、田《でん》村の人間じゃないのよ! 分る? よそ者なのよ!」
百代は文江の方へかがみ込《こ》んで、低い声で言った。「どうして帰って来たの? どうして東京で好《す》きな男と暮してなかったの? 自分で捨《す》てた村へ、好きなときにノコノコ帰って来るなんて、あんまり勝手じゃないの」
「百代、やめて」
文江は顔をそむけた。「私だって——好きでこんな騒《さわ》ぎを起こしたわけじゃないわ」
「あなたが帰って来なければ、坂東さんだって、金子さんだって、死なずに済《す》んだのよ」
「やめて!」
文江も立ち上って、真《まつ》直《す》ぐに百代の目を見返した。「——ここまで来たのよ。今さら、元には戻《もど》せないわ。今、私が手をひいても、元には戻らないのよ」
「それはあんたの勝手だわ」
百代は言った。「あのメモを渡《わた》して」
「だめよ」
百代が、手にしていた紙《かみ》袋《ぶくろ》から、肉切り包丁を出して、握《にぎ》りしめた。——刃《やいば》が白く光った。
「よこしなさい!」
文江は信じられなかった。——これは夢《ゆめ》だ。悪い夢なんだ、と思った。
「さあ、早く!」
百代の声が震《ふる》えている。
「百代……。あなたに私が刺《さ》せる?」
「昔《むかし》の友《ゆう》情《じよう》なんてあ《ヽ》て《ヽ》にしないで。今は主人と子《こ》供《ども》たちの生活を守らなきゃならないのよ!」
百代は真《しん》剣《けん》だ。文江にも、それは分った。
「刺《さ》すわよ、本当に!」
文江は、恐《おそ》ろしくなかった。ただ、無《む》性《しよう》に哀《かな》しかった。
七年の歳《さい》月《げつ》とは、こんなにも、長いものだったのか。
「——百代さん」
思いがけない声がした。——公江が、入口に立っていたのだ。
「百代さん。おやめなさい」
常石公江の言葉は、重かった。百代は、包丁を取り落とすと、逃げるようにして、走り去った。
文江はペタン、とベンチに腰《こし》を落とした。
「お母さん、私……」
「何も言わなくていいよ」
と、公江は、娘《むすめ》の肩《かた》に手をかけた。「分ってるよ」
文江は、涙《なみだ》が出て来るのを、拭《ぬぐ》いもせずに放っておいた……。
「——帰るって?」
草永が、びっくりしたように言った。
「ええ」
文江は肯《うなず》いた。
病院の近くの喫《きつ》茶《さ》店《てん》だ。——文江は、一《いつ》睡《すい》もしていなかった。
「何があったんだ?」
と草永は訊《き》いた。
文江は、昨《さく》晩《ばん》の出《で》来《き》事《ごと》を話して聞かせた。
「そうか」
草永は肯いた。「なるほどね」
「もともと私が口を出す問題じゃなかったのよ。警《けい》察《さつ》へ任《まか》せておけば良かったんだわ。——もう東京へ帰って、おとなしくしてるわ、私」
草永がじっと文江を見つめて、
「本当にそう思ってるのかい?」
と訊《き》いた。
「ええ、もちろんよ」
と言ってから、文江は、深々と息をつき、うつむいた。「——いいえ。帰りたくないわ」
「そうだろう。ここまで来たんだ。やめちゃいけない」
文江は草永の手を握《にぎ》った。
「でも、あなた、最初は、やめろと言ってたじゃないの」
「あのときはまだやめられた。でも、今はだめだよ」
「みんなが私のことを、憎《にく》むかしら?」
「世の中の人、全部を敵《てき》に回すわけじゃないんだ。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。村の人たちだって、ずっと後になれば、分ってくれるさ」
草永の励《はげ》ましは単《たん》純《じゆん》で、それだけに力強かった。
「分ったわ。——ともかく、やってみましょうか」
「そうだとも!」
草永は肯《うなず》いた。「今日は、宮里先生に会うんだろう?」
「そうだったわね。——でも母にもついてなきゃ」
「じゃ、僕《ぼく》が宮里先生に会って来てもいいよ」
「いえ、私が行くわ! あなた、母をみててくれる?」
「そりゃいいけど……」
草永はためらった。「でも、一人じゃ危《あぶな》くないかい?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ! 相手は宮里先生ですもの」
「忘《わす》れるなよ。君はあの人に首を絞《し》められたんだぜ」
「でも殺さなかったわ。そんな度《ど》胸《きよう》ないのよ、あの人」
「そうかな」
「ともかく、危いことはしないから、心配しないで」
「気を付けろよ」
草永は不安そうに言った。
「分ってるって。これで、宮里先生の話を聞けば、事《じ》件《けん》の真相も、大分はっきりして来ると思うな」
「そうだね。——あんまり調子に乗っちゃ、危《あぶな》いぜ」
「心《しん》配《ぱい》性《しよう》ね」
と、文江は笑《え》顔《がお》を見せた。
——田《でん》村へ足を踏《ふ》み入れると、文江は何となく奇《き》妙《みよう》な静けさに囲まれて、当《とう》惑《わく》した。
人の姿《すがた》が、あまり見えない。
息をひそめて、静まり返っている、という感じである。——どこか、おかしい。
宮里医院の前へ来て、またまた文江は当惑した。
〈本日休《きゆう》診《しん》〉
の札《ふだ》が、下がっている。
玄《げん》関《かん》の戸を叩《たた》いてみたが、一向に返事もない。隣《となり》の主《しゆ》婦《ふ》が顔を出して、
「常石さんのお嬢《じよう》さんですね」
と言った。
「はい」
「先生が、神社へ来てくれるように、って——」
「神社へ?」
「ええ。そう伝えてくれ、と」
「——分りました。どうも」
神社か。——あの、アーチェリーの矢《や》を見付けた所である。
何となく、気に入らなかった。きっと、草永はやめろと言うだろう。
文江は神社へ向って歩き始めた。——ともかく、自分で始めたことなのだ。自分で、けりをつける。
道でも、人に会わなかった。——百代の家の前で、足を止め、ためらった。
よほど声をかけようかと思ったが、やめておいた。今は、まだ早すぎる。
神社への道が、長く感じられた。疲《つか》れているのか。それとも都会暮《ぐら》しで、足が弱っているのだろうか。
確《たし》かに、百代の言葉通り、自分は、「よそ者」なのかもしれない……。
境内《けいだい》は、静かだった。
晴れ上って、暖《あたたか》いのに、子《こ》供《ども》たちの遊ぶ姿《すがた》もない。気味が悪かった。
文江は、ゆっくりと進み出て、
「宮里先生!」
と呼《よ》んだ。「——先生!——文江です。先生、どこにいるんですか?」
返事はなかった。
誰《だれ》かがいる。——突《とつ》然《ぜん》、文江はそれに気付いた。
目には見えないが、人がどこかに潜《ひそ》んでこっちを見ている。それも一人ではない。
顔から血の気がひいた。——来るんじゃなかった、と思った。
しかし、もう遅《おそ》い。こうなったら、怯《おび》えないことだ。
「誰なの!」
と、強い声で言った。「隠《かく》れてる人、出てらっしゃい!」
林の奥《おく》の茂《しげ》みがザーッと揺《ゆ》れた。
男たち——お面をつけた男たちが現《あらわ》れた。二人、三人——五人。
あの倉庫の焼《やけ》跡《あと》で、襲《おそ》ってきた連中かしら、と思ったが、もちろん、おかめやヒョットコの面で隠《かく》れていて、顔は分らない。
しかし、その物《もの》腰《ごし》や体つきは、どうも、あの若《わか》者《もの》たちのものではなかった。もっと中年男のそれだ。
「誰《だれ》? 何の用?」
文江は、男たちが手に手に、棒《ぼう》きれや、縄《なわ》を持っているのに気付いて、ゾッとした。
私刑《リンチ》!——どこかの木にでも吊《つる》すつもりなのか。
「誰なの……」
と文江は、ジリジリと後ずさった。
突《とつ》然《ぜん》、ある光景が、頭の中を駆《か》け抜《ぬ》けた。
坂東和也の死。あれも、私刑だったのではないか。こうして、同じように自殺に見せかけて、吊されたのではないか。
文江は、もしこのまま首を吊《つ》って死んでいるのが発見されたら、どうなるだろうか、と思った。おそらく、自殺で片《かた》付《づ》けられるのではないか。
そうやすやすとはやられない。
文江は、男たちの間を駆《か》け抜《ぬ》けようと足を踏《ふ》み出した。ヒュッと風を切る音がして、矢が足もとに突《つ》き立つ。ハッとした。
男たちが飛びかかって来るのを、辛《かろ》うじてかわすと、境内《けいだい》を、石《いし》段《だん》の方へと駆《か》け出す。
しかし、前に立ちふさがった人《ひと》影《かげ》に、ギクリとして足を止めた。
「白木さん!」
白木巡《じゆん》査《さ》が、アーチェリーの弓《ゆみ》を手に、立っていた。
「お嬢《じよう》さん。——こんなことはしたくないが、村のためです」
と白木は言った。
文江は唖《あ》然《ぜん》として、振《ふ》り向いた。——男たちが迫《せま》って来る。
「——和也の奴《やつ》が見つけて来た金は、大金だった」
と、白木が言った。「村にとっちゃ、本当に、見たこともない金でした」
「だから、和也君を殺して、金を奪《うば》ったの?」
「あれは自殺ですよ」
「嘘《うそ》だわ。こうして私刑《リンチ》にかけたんでしょう。自分でも分っているくせに!」
「宮里先生も、ちゃんと自殺という結《けつ》論《ろん》を出しましたよ」
「そうだ」
男たちの一人が面を取った。宮里医《い》師《し》だった。
「先生……。それじゃ、みんなでぐるになって——」
「みんなじゃない。——和也は、警《けい》察《さつ》の訊《じん》問《もん》で、あの金のことをしゃべった。それを聞いたのは白木さんで、どうしたものかと、我《われ》々《われ》が相談を受けたんだ」
「盗《ぬす》んだお金よ!」
「しかし、我々は借金で苦しんでいた。金子駅長の女《によう》房《ぼう》が、高《こう》利《り》貸《がし》のようにうるさく取り立てたからね」
「それにしたって……」
「あの金を盗《ぬす》んだ強《ごう》盗《とう》は、和也が殺《ころ》した。そして和也は金をあの倉庫へ隠《かく》したんだ」
「そして和也が死んだ。両親も村を出て行った。あの金のことは、誰《だれ》も気にしちゃいないんだ」
宮里は言った。「返したところで、何もしてくれるわけじゃない。そうだろ? 盗まれたのは銀行だ。金に困《こま》るわけでもないさ。——それなら我《われ》々《われ》が使おう。そう思ったんだ」
「都合のいい理《り》屈《くつ》ね」
「そうかもしれん。しかし、あれで実《じつ》際《さい》に、我々は救われた」
「金子さんはそれを知っていたの?」
「もちろんさ。しかし、あの女《によう》房《ぼう》ががめつくて、金の分け前を取って行った。銀行の金の入っていた布《ぬの》袋《ぶくろ》は、あの倉庫に埋《う》めてあったんだ」
「それで、何もかも無《ぶ》事《じ》に済《す》んだわけね」
「そう。和也は、あんたを殺して自殺、ということで事《じ》件《けん》は終った。ところが——」
「七年たって、私が帰って来た」
「そういうことだ」
宮里はため息をついた。「なぜ帰って来たんだ」
「私もそう思うわ。でも、もう今さら、なかったことにはできないでしょう」
「そういうことだね」
と宮里は肯《うなず》いた。
「それで、まず私をおどかそうとして、首を絞《し》めた。それで諦《あきら》めると思ったのね」
「あのお嬢《じよう》さんが、こんなに気の強い女になっているとは思わなかったんでね」
「坂東さんを殺したのは誰《だれ》?」
宮里が、白木を見た。白木が目を伏《ふ》せる。
「あなたがやったの?」
文江は目を見《み》張《は》った。「警《けい》官《かん》でしょう! それなのに——」
「やる気はなかったんだ」
と白木は言った。「本当ですよ。前の晩《ばん》に坂東の親《おや》父《じ》に会ったんです。ともかく、和也があなたを殺してなかったことははっきりしたわけですからね。——でも、村へは帰って来ない方がいい、と言ってやったんです。ろくなことはないし、村の連中も、却《かえ》っていやな顔をするだろう、って。——ところが、あいつは聞きやしない」
「それが当然でしょう」
「それどころか。——口《こう》論《ろん》している間、ヒョッと向うが口を滑《すべ》らしたんですよ。『あの金のことだって知ってるぞ』って」
「知ってたのね」
「親父の方だけでしょうが、和也が打ちあけてたらしいですな。しかし、坂東としては、そんなことを公にすりゃ、息子《むすこ》の罪《つみ》を上《うわ》塗《ぬ》りするようなもんだ。黙《だま》っていたんですよ。——でも村の様子を、色々と——たぶんあんたのお母さん辺りから聞く内に、どうやら金を手に入れた奴《やつ》がいるらしいと察していた。調べていたのかもしれんですな。どうせ、することもないんですから」
「それで……」
「村へ行って、何もかもぶちまけてやる、と言い出した」
「白木さんのことも、知っていたのね」
「何しろ、当人が、金子さんからの借金の常《じよう》連《れん》で、他に誰《だれ》が借りているか知ってましたからね。その連中が、みんな家を直したり、金回りが良くなったと知れば、おかしいと思いますよ」
——どうして、あんなに早く、殺《さつ》人《じん》犯《はん》が坂東のアパートを知ることができたのか、文江には不思議だったのだが、警《けい》官《かん》なら調べるのは容《よう》易《い》だろう。
「次の日の朝、もう一度表で会って、話をしましたが、とても聞きやしない。仕方なかったんですよ」
「言いわけは結《けつ》構《こう》よ」
と、文江は言った。「——倉庫へ火をつけたのは誰《だれ》?」
「ありゃ、百代の亭《てい》主《しゆ》さ」
と、宮里が言った。
「百代の?」
「ああ」
文江は少し間を置いて、言った。
「百代のご主人はどこまで知っているの?」
「金のことは知らん。よそ者だしね。——ただ、金子から、やはり借金をしていた」
「知ってるわ」
「そうか、あのメモを手に入れたそうだな」
「ええ」
「どこにある? まあいい。しゃべりそうもないな」
「当り前よ」
「あの亭主は気が弱いんだ。——我《われ》々《われ》は、あの倉庫にある銀行の袋《ふくろ》を、どうにかしなきゃならなかった。しかし、持ち出すのは目につくし、どこへ埋《う》めたって、また心配だ。そこで火をつけて、あの中のガラクタと一《いつ》緒《しよ》に燃《も》やしちまおうと思った。それまで我々がやるより、他の人間をたきつけてやらせた方が、いざというとき、味方もできる、と思った。それで、借金の記録が、その倉庫にあるらしいと吹《ふ》き込《こ》んで、火をつけさせたんだ」
鉄男が見たという、ホームの男女は、百代とその夫だったのだ。
「で、その間に金子さんの薬に毒を混《ま》ぜたのね。——なぜ?」
「金子さんは、弱気になっていてね」
と、白木が言った。「もう病気で長くないことは、みんな知っていた。あの人は、もともと奥《おく》さんに引きずられるようにして生きて来たが、先が長くないと分ると、何もかも白《はく》状《じよう》してしまおうと思ったんです」
「それを止めようとしたのね」
「やったのは宮里さんですよ。私は知らなかった」
「何を言ってるんだ」
と宮里は苦《く》笑《しよう》した。「言わなくたって分ってたはずだ」
「じゃ、あの坂東さんの家に埋《う》めてあったお金は何なの?」
「あれは金子さんが作ったお金なんです」
と白木が言った。
「金子さんが?」
「女《によう》房《ぼう》に黙《だま》って、あの家まで抵《てい》当《とう》に入れて、金を作ったんだ。死んで、後から分って、女房は卒《そつ》倒《とう》しそうだった」
「じゃ、盗《ぬす》んだお金を返すつもりで?」
「ああ。まるで同じ額《がく》にして揃《そろ》えておいたんだ。全くご苦労なことだ。そうしなきゃ、死ねなかったんだろうな」
「お金を返すのに、わざわざあそこへ埋《う》めたの?」
「やっぱり自分がやったことになっちゃ困《こま》る。それで、どこかから出て来るってことにしたんだろう。それにはあの空家が一番だ。七年間、ずっと閉《しま》っていたんだからな」
「そこにずっと埋《うま》っていたと思われるだろうってわけね。でも、それをどうやって知らせる気だったの?」
「分らんね。ともかく、あれは金子一人のやったことだ」
あの空家に出たという〈幽《ゆう》霊《れい》〉は、一体何だったのだろう? あのとき、金子はもう死んでいた。
「——さて、これで気が済《す》んだかね」
と宮里が言った。
「私を矢《や》で射《う》ったのは白木さんね。車でひこうとしたのは、先生?」
「おどかしただけだ。殺す気はなかった。——あんたが、おとなしく東京へ帰っていれば良かったんだ」
文江は、自分を囲む男たちを見回した。白木、宮里の他も、古い、よく知っている村の人たちだ。
「私が帰ったからって、どうにもならないわよ」
と文江は言った。「私を殺してもね。——私の恋《こい》人《びと》や、それに県《けん》警《けい》の室田さんは、もう真相をうすうす察しているのよ。どうするの? みんな殺すつもり?」
一《いつ》瞬《しゆん》、ためらいが、男たちの間に走った。——これなら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かもしれない、と文江は思った。
「一度、二度とやる度に、楽になるわ。悪いことはね。これきりだと思っている内に、どんどん深い所へはまっていくのよ」
「説教かね」
「違《ちが》うわ」
文江は、宮里を真《まつ》直《す》ぐに見返した。「時がたてば、総《すべ》てが忘《わす》れられるというわけじゃないのよ。時がたっても、消えない罪《つみ》があるのよ」
「いい度《ど》胸《きよう》だな、さすがに常石の娘《むすめ》だ」
「借金していた人たちのリストも、手に入っているわ。そこから、金子さんを殺したのがあなただって察しがつく。一つ分れば、そこからもう一つ、もう一つ、と真実がたぐり寄《よ》せられて行くわ。——もう諦《あきら》めなさい。いつかは何もかもが明るみに出るのよ」
「今さらそんなことはできんよ」
宮里が、両手でがっしりと文江をつかまえた。——力では逆《さか》らってもむだだ。
白木が、言った。
「やめよう、宮里さん」
「何だと?」
「お嬢《じよう》さんを殺すことはできんよ」
「怯《おじ》気《け》づいたのか お前だって、クビになって監《かん》獄《ごく》行きだぞ」
「分ってる。しかし——」
「じゃ、そこで黙《だま》って見てろ! 縄《なわ》を貸《か》せ。俺《おれ》がやる」
他の男たちが、文江を押《おさ》えつける。宮里が、縄を輪にして、木の太い枝《えだ》へと投げた。
「——さあ、これでいい」
宮里の声が、引きつっている。額《ひたい》に汗《あせ》が浮《うか》んでいる。
「後《こう》悔《かい》するわよ」
と、文江は言った。
「酒でも飲みゃ忘《わす》れるさ」
「一生酔《よ》っ払《ぱら》っているつもり?」
「人のことは放っておけ!——俺《おれ》だって、好きでやるんじゃない」
縄《なわ》の輪が、文江の首にかかった。輪が絞《し》められて、少し首に食い込《こ》む。
これで死ぬのかしら? 何だか妙《みよう》な気持だった。
恐《おそ》ろしくも何ともない。
まるで、お芝《しば》居《い》の一《ひと》幕《まく》のようで……。そう。ここへ誰《だれ》か、ヒーローが颯《さつ》爽《そう》と現《あらわ》れて助けてくれるのだ。
「さあ引《ひつ》張《ぱ》るぞ」
と宮里が枝《えだ》越《ご》しに垂《た》れた縄へと手をかけた。
そのとき、
「こらあ!」
と凄《すご》い声がした。「お嬢《じよう》様《さま》に何をするんだ!」
「うめ!」
と、文江は言った。
うめが、着物の裾《すそ》をはしょって、時代ものの、な《ヽ》ぎ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》を手に、立っている。
「この……悪《あく》党《とう》め!」
と叫《さけ》んだと思うと、ビュンビュンと、なぎなたを振《ふ》り回しながら、突《とつ》進《しん》して来た。
「危《あぶな》い!」
「逃《に》げろ!」
「やめてくれ!」
そのうめの剣《けん》幕《まく》と迫《はく》力《りよく》に圧《あつ》倒《とう》されて、宮里も白木も、飛び上って逃げ出した。
「卑《ひ》怯《きよう》者《もの》!」
うめは、ウオーと、獣《けもの》のような声を上げて追いかけたが、すぐに戻《もど》って来て、
「お嬢《じよう》様《さま》! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか!」
「ありがとう。助かったわ」
文江は、縄《なわ》を外して、息をついた。「こんなネックレスは願い下げだわ」
「鉄男から電話があったんですよ」
「鉄男君?」
「ええ。白木さんが、列車で東京へ行ったことを黙《だま》ってろって口止めしたそうで、何か様子がおかしいって。そしたら、子供が駆《か》けて来ましてね。ここでお嬢様が囲まれてるって。——で、あわててやって来たわけで」
「そう。ともかく良かった。——肝《かん》心《じん》の恋《こい》人《びと》はどうしたのかな」
まるでそれに答えるように、
「おい!——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か!」
と、叫《さけ》ぶ声がして、見ると、草永と、室田が走って来るのが見えた。
「——村は大《おお》騒《さわ》ぎ」
と、文江は言った。
「そうだろうね」
公江がベッドの中で肯《うなず》いた。
「白木さん、宮里先生……それに、百代のご主人も放火の罪《つみ》で。——百代は関係ないとかばって、ご主人一人の罪になったようよ。気が重いわ」
「お前のせいじゃないよ」
「でも——」
「本当なら、みんなずっと前に、その罪を償《つぐな》ってなきゃいけなかったんだよ。それが遅《おく》れただけ。お前がすまないと思うことはないのよ」
「ええ、それは……」
「安心していなさい」
と、公江は言った。「後は私が何とかするよ」
「お母さんが?」
「そうさ。捕《つか》まった人の家族の面《めん》倒《どう》は、私がみてあげる」
「本当に?」
「それが常石家の仕事よ。代々のね。私が死んだら、お前に継《つ》いでもらおうかね」
「当分は元気でいてね。しばらくは彼《かれ》と新《しん》婚《こん》生活を楽しみたいから」
「お前は勝手ばっかり言って。それでも常石家の娘《むすめ》なの?」
そう言って、公江は笑《わら》い出した。
文江も一《いつ》緒《しよ》になって笑った。
「やあ、にぎやかだな」
と、病室へ入って来たのは、草永だった。
「あら、遅《おく》れて来たスーパーマン」
「おい、皮肉はよせよ」
と、草永は苦《く》笑《しよう》した。「宮里の行先をつきとめるのが大変だったんだから」
「うめがいなかったら、私は哀《あわ》れ、美人薄《はく》命《めい》を証《しよう》明《めい》するところだったのよ」
「証明したじゃないか」
「何ですって?」
「いや別に」
草永は咳《せき》払《ばら》いをした。
「うめとしては、罪《つみ》滅《ほろ》ぼしのつもりだったのよ」
と公江が言った。
「罪滅ぼしってどういうこと?」
「お前が家を出て行ったあと、部屋が荒《あ》らされて、書置きもなくなっていたの憶《おぼ》えてるだろ」
「ええ。不思議だわ、あれが」
「うめがやったのよ」
「うめが?——どうして?」
「うめなりの哲《てつ》学《がく》があるからね。名家の娘《むすめ》が自分から家を出たとなると、常石家の恥《はじ》になると思ったんだよ、きっと。だから、むしろ誰《だれ》かに襲《おそ》われたとも見えるように、部屋を荒《あら》しておき、書置きも捨《す》ててしまったのよ」
「でも、それが、和也君を死に追いやったのよ」
「後になってからは言い出せなかったんだろうよ。気の毒にね。ずっと気にしていたんだと思うよ」
文江は少し間を置いて、
「それは、うめから聞いたの?」
「いいえ、私の想《そう》像《ぞう》よ。でも、ずっとうめのことは見てるからね。——たぶん間《ま》違《ちが》いないでしょ」
文江は、母の言葉が正しいだろう、と思った。——草永が言い出した。
「ねえ、一つ分らないのは、あの幽《ゆう》霊《れい》なんだ。例の坂東の家に出た奴《やつ》さ」
「ああ、あれね」
と、文江は肯《うなず》いて、「あれは私も分らないの。どうなってるのかしら? まさか金子さんの幽霊が本当に……」
「その幽霊なら」
と公江は言った。「ここにいるよ」
「お母さんが?」
文江は目を丸《まる》くした。
「金子さんにね、相談を受けてたんだよ」
と公江は言った。「はっきり言わなかったけど、悪い金に手をつけた。それを返したい、と言ってね。——あそこへ埋《う》めたのも知ってたの。だから、亡《な》くなったとき、何とか金子さんの気持ちを尊《そん》重《ちよう》してあげたくてね。それであんなことをしたのよ」
「人《ひと》騒《さわ》がせね、お母さんも」
と文江は苦《にが》笑《わら》いした。
「気が若《わか》い、って言っとくれ」
と公江は言った。「ああ、お腹《なか》が空《す》いた。うめに食事を運ばせようかね、ここまで」