叔《お》母《ば》から電話があったとき、希《き》代《よ》子《こ》はちょうど特集記事のタイトルをめぐって、編集長の倉《くら》田《た》とやり合っているところだった。
「希代子さん、お電話!」
と呼ばれて、
「はい!」
と怒鳴るのが先か振り向くのが先か ——。
「ともかく、古くさいんですよ、これじゃ!」
ドンと編集長のデスクを 叩《たた》いて、自分の席へ戻る。パッと電話を取って、
「はい、 篠《しの》原《はら》です。——あ、叔母さん」
急に肩の力が抜けてくる。「 ——ううん、いいの。ちょっとバタバタしてただけ」
電話の向うで、叔母の 津《つ》山《やま》静《しず》子《こ》が笑っている。
「おっかない声出して。そんなんじゃ、男が寄りつかないよ」
と言ってくるので、
「それくらいでちょうどいいの。少しふるいにかけないと、整理がつかない」
と、笑ってやった。「で、何か用?」
「うん……。できたら、今日でもちょっと帰りに寄ってくれない?」
「今日?」
「いつもの日じゃないのは分ってるの。もしどうしても忙しいってことなら……」
叔母が無理を言ってくることは珍しい。希代子は少し迷ったが、
「 奈《な》保《ほ》ちゃんのこと?」
と、確かめた。
これで、変な「お見合いの話」でも持ち出されたらかなわない。
「そうなのよ」
「分った。寄るけど、少し遅くなるわ」
「構わないわよ」
「たぶん……十一時ごろかな」
「ええ、待ってるわ」
静子はホッとしている様子だった。
「じゃあ、後で」
「悪いわね」
電話を切ると、希代子は取りあえずパッと頭を切りかえた。
「編集長! どうします?」
と、 大《おお》股《また》に歩いて行くと、
「分った分った」
倉田は苦笑して、「そう攻めて来るな。怖いよ」
「失礼な! こんなやさしい女をつかまえて!」
パッと校正刷を取り上げて、「じゃ、赤字の通りでいいですね」
「分った!」
と、倉田はお手上げという顔で、「 俺《おれ》一人がクビになりゃすむことだ」
「そうそう」
と、希代子は笑って、「そのための編集長でしょ」
自分の 椅《い》子《す》に戻って、すぐ印刷所へファックスを入れる。倉田の気が変らない内に、というわけだ。
「希代子さん、ポジ上ってるよ」
ポンと封筒が飛んで来る。
「はいはい。どう? ——使えるかな」
写真のポジを見ながら、どれが使えそうか見て行く。その間、ファックスはカタカタと音をたてながらせっせと仕事をしていた。
——篠原希代子は二十八歳。このS社の編集部に席はあるが、正式な社員ではない。契約社員という立場で、単なるフリーのライターやエディターよりは安定している。
しかし、万一の保証などは全くないし、編集長が倉田のようなタイプならいいが、全然別のタイプがその椅子に座ると、希代子の座も危い。
何しろ、言いたいことをポンポン言って平気で 喧《けん》嘩《か》を売るので、嫌われる相手からは、
「顔も見たくない」
などと言われたりする。
しかし、自分の感覚を信じてやるしかない。それがこういう仕事の宿命である、と希代子は思っている。
割合長身だが、骨太でしっかりした体つき、髪は短く切って、ボーイッシュな印象である。ちょっと逆三角形の顔は目が大きい。
美人、と見られることも、ときどき(?)ある。しかし、あまりにパワフルな印象の方が強烈なのだ。
「 ——はい、OK、と」
希代子は、編集長の倉田が帰り仕度をしているのを見て、「あ、もう帰るんですか」
「おい、俺にゃ妻も子もあるんだ」
「部下もいます。 ——冗談ですよ、早く帰ってあげて」
「追い出すなよ」
と、倉田は笑って、「じゃ、後は頼む」
「はい。ご苦労様」
希代子は手を振った。
倉田は、年齢の割に髪はほとんど白くなっている。その何十分の一かは自分のせいかもしれない、と希代子は思ったりもするのだった。
十時を少し回っている。
「私もそろそろ帰るわ。カズちゃん、明日はこっち?」
と、若い編集者の男の子に声をかける。
「はい。昼からですけど」
「私、明日、外回ってくるから、夕方、途中で電話入れる」
「分りました」
——編集の仕事は、出社時間などあってなきが如《ごと》し。特にこのセクションはそうである。
希代子のように半分フリーという立場の人間は、さらに自由なのである。
机の上を片付けて、帰り仕度は手早い。
「じゃ、お先に」
と、残っている数人に声をかけて、オフィスを出る。
途中何か食べて行く余裕はない。コンビニで何か買うか。
実のところ、叔母のうちで何か出してくれないかと期待しているのである。
表に出てタクシーを拾うことにする。 ——この仕事はタクシーを使い慣れているので、ついどこへ行くにもタクシーということになってしまう。
空車が一台来た、と思うと、大分手前で拾われてしまう。肩をすくめた。ま、その内来るだろう。
その一台が、目の前を横切って行ったが ——。
「あれ?」
倉田だ! 一人じゃない。一緒に乗っていたのは、確か何とかいう経理の女の子。
何が「妻も子もある」よ! ——呆《あき》れた。
呆れていて、危うく次の空車を拾いそこねるところだった。
タクシーに乗ると、反射的に眠くなる。
いつも寝不足をタクシーの中で補っているせいだ。
叔母の所までは、眠るほどの距離ではない。 ——希代子は、頭を振って窓の外へ目をやった。
希代子は独身、マンションに一人住いである。いつ帰っても、いつ起き出しても、誰も困らない。
しかし、それだけに自分の中できちんと一線を引いておかないと、ただひたすらだらしなくなって行ってしまう。希代子にとって、その一つが、叔母に頼まれて、その娘の奈保の家庭教師をつとめていることだった。
雑誌の進行の関係で比較的空けやすい木曜日を一応、奈保を教える日ということにしてある。仕事で前後することもあるが、できる限り、その約束は守っていた。
今日は火曜日である。叔母が来てくれというのは、何かよほど当惑しているからだろう……。
仕事から離れると ——文字通り、「離れて」行くにつれて、体がほぐれて行く。
自分ではそれほど 肩《かた》肘《ひじ》張って生きているつもりはない。こんな生き方が性に合っていると思うし、楽しんでもいるつもりだ。
それでも、「一人になる」ことの快感は、希代子の中に確かに残っているらしい。
「 ——どの辺ですか」
と、運転手に 訊《き》かれ、
「あ、その先の信号、右折して」
と、希代子は言った。
津山家は、まあ世間一般の水準から言えばなかなかの構えの家を持ち、余裕のある暮しをしていると言えるだろう。
門柱のインタホンを鳴らすと、返事の代りに、和服姿の叔母が玄関から出てくるのが見えた。
「希代ちゃん、悪いわね」
と、門を開けてくれ、「入って。 ——夕ご飯は?」
「うん……。一応食べたけど」
「まだ入るでしょ。お 寿《す》司《し》があるの。食べてって」
「やった」
と言って、希代子は笑った。
玄関を上ると、居間へ通してくれる。
「叔父さんは?」
「九州。このところ、ほとんどうちにいないわ」
叔母、静子は希代子の母の妹である。希代子の母は少々がさつなほど元気な人だが、この妹は名前の通り、もの静かでおとなしい。
「 ——さ、お腹《なか》空《す》いてるんでしょ」
希代子が来るかどうか分らない内に、出前を取っておいてくれたのだ、と分る。静子はそういう性格なのである。いざとなれば何とかなる、という希代子の母とはタイプが逆。
「 ——おいしい」
と、寿司をつまんで、わさびにちょっと涙ぐんだりしながら、「奈保ちゃんは?」
「もう部屋に」
と、チラッと上に目をやって、「眠ってはいないと思うけど」
「どうかしたの?」
「この間、実力テストがあって……」
「ああ、先週ね。それで?」
「先生に呼ばれたの。 ——なぜだか急に点が落ちたって」
と、静子は少し声をひそめた。
「落ちた?」
希代子もびっくりした。これでは もろ自分の責任ということになるではないか。先生に呼び出されたというのは、相当ひどかったのだろう。
「待っててね」
静子が立って行って、すぐに戻ってくる。
実力テストの成績表を見せられて、希代子は目を疑った。
「これ ——本当に、奈保ちゃんの?」
「そうなのよ。だから来てもらったの」
静子は、そう言って、 肯《うなず》いて見せた。
奈保は十七歳、高校三年生である。同じ女子校に小学校から通っているが、ここは短大しかない。四年制の大学へ進むためには来年が受験ということになる。
今はまだ五月で、時間はあるにしても、高一の末からずっと希代子がみて来て、こんなひどい点は取ったことがなかったのだから、やはり心配になって当然だろう。むしろ、奈保はそこそこでも安定した成績を取るタイプで、その辺は希代子ものみ込んでいるつもりだった。
「まだ取り返せるとは思うけど、何か原因があるのなら、よく話し合って下さい、って先生がおっしゃるもんだから」
「原因って ——何か思い当ることでも?」
「さあ……。あの子も、もともとそう何でもしゃべる子じゃないしね。急に問い詰めたりするのもいけないかと思って」
一人っ子の奈保よりも、むしろ、静子の方が末っ子で気弱なところがある。希代子にもそれはよく分っていた。
静子は自分の代りに、希代子に奈保と話してほしいのだ。
「分ったわ」
と、希代子は肯いて、「奈保ちゃんと話してみる。まだ起きてるわよ、当然」
お茶を飲み干して、
「ごちそうさま」
と立ち上って、「叔母さん、でもね。もし奈保ちゃんとざっくばらんにしゃべるんだったら、お母さんには絶対内緒ってことになるかもしれないわよ。それは承知しといてね。もしこっそりしゃべったりしたら、もう二度と口もきいてくれなくなるわ」
「任せるわ、希代ちゃんに」
と、静子はホッとした様子で言った。
ドアを叩くと、
「はい、どうぞ」
と、すぐに返事があった。
母親にこんな言い方はしないから、希代子が来ていることは分っていたのだろう。
「 ——何してるの?」
と、中へ入って、希代子はちょっと戸惑った。
奈保はパジャマ姿でベッドにひっくり返っている。 ——いつも、勉強するときの奈保しか見ていないので、妙な感じである。
「FM聞いてた」
リモコンでラジカセのスイッチを切ると、
「お母さんたら、大げさだから」
「大げさじゃないわ。あの点数なら、教育ママだったら、卒倒してるかも」
希代子は、勉強机の奈保の椅子に腰をおろした。
「忙しいんでしょ」
と、奈保は言った。
「いつもの通り」
「いいの、こんな所に来てて」
奈保は、じっと天井を見上げている。
「奈保ちゃん」
と、希代子は言った。「起きて、こっちを見て」
奈保は、ゆっくりと起き上った。
十五歳のころから見ている ——いや、もちろん従妹《いとこ》としてはずっと小さいころから見ている少女だが——希代子の目にも、十七になって奈保の体つきが日ごとに(と言っていいくらい)変って来ているのが分った。
ふっくらと丸みを帯びて、肩の線、スラリと伸びた足など、もう大人の女の香りを漂わせている。それに奈保は父親に似ている。なかなかきりっとした二枚目の父親だけに、奈保も美人である。
少し潤んだような目は母親から受け継いだのかもしれない。
「ね、希代子さん」
奈保は、いつもこう呼ぶ。「お母さん、何か言ってた」
「別に」
と首を振って ——希代子にはもう分っているような気がしていた。
「そうだよね」
と、奈保はまたベッドに仰《あお》向《む》けに寝てしまう。
「奈保ちゃん」
「うん……」
「今、勉強手につかないくらい、気になってることがあるのね」
「うん」
「男の子」
「 ——うん」
「好きなんだ」
「うん」
「いいなあ」
奈保は、ゆっくり希代子の方へ頭を向けた。
「何が?」
「私には恋人なんかいないぞ。子供のくせに、生意気な!」
奈保がちょっと笑った。
——これが、すべての始まりだった。このなごやかな会話が。