部屋へ入ると、明りを 点《つ》ける前に留守番電話の点滅が目についた。
妙なもので、同じ点滅でも、日によって 嬉《うれ》しくなるときとうんざりするときがある。
希代子は今日、誰からでもいい、親しげなメッセージの入っていることを期待したい気分だった。
ロックしてチェーンをかける。女一人、都会で暮して行くにはこれが「本能」のようにならなくてはいけない。
カーテンをきちんと引いて、少々だらしない格好になってもいい状態にしてから、やっと留守電の再生ボタンを押した。
「三件です」
妙なアクセントの合成音が、入っている件数まで教えてくれる。これはちょっとやりすぎよね、と希代子は思ったりもする。
服を着がえながらテープを聞く。一件目はもう夕方には解決のついた、仕事上の問題、二件目は、
「倉田だけど」
編集長? 耳をそばだてると、
「明日は出社が夕方。打ち合せをその前に入れないでくれ」
それだけ? ——希代子は録音の入った時間に耳を澄ました。
「十時五十二分です」
じゃ、倉田はあの若い彼女と一緒だ。たぶんホテルの部屋からでもかけているのだろう。
自宅には、「遅くなって、泊る」とでも連絡を入れて。
「男ね」
と、希代子は 呟《つぶや》いた。
もう一件は? ピーッという信号音の後、少し間があった。何も入っていないのかと思った。
慣れない人は、留守電に録音するのを恥ずかしがる。その気持は希代子にも分る。
しかし、切れる前に、男の声が入っていた。
「希代子……。元気でやってるかい」
誰だろう? 希代子は 眉《まゆ》を寄せた。
「僕は、二、三日前に東京へ出て来た。一度会いたい。分るね。 ——白石だよ」
希代子は立ちすくんだ。
ピーッと音がして、再生が終った。
しばらく、その音が部屋の中を巡っているかのようだった。
ハッと我に返ると、急いで留守電のボタンを押す。シュルシュルと音をたててテープが巻き戻り、同時に、録音されていた声は消去されている。
もう一度聞くべきだったか? ——そんなこと! 必要ないわ。
希代子は、じっと電話を見下ろしていた。まるで電話が何かを知っている、とでもいうように。
頭を振って、バスルームへ行く。 ——あまり遅くなると、下の部屋の人に気がねで、風呂へ入れなくなってしまうので、急ごうと思った。
下も割合遅いので、午前一時ころまでは大丈夫である。
浴槽にお湯を出しておいて、希代子はキッチンに立った。風呂上りのジュースを作るのである。
習慣というものは、特に一人住いの女にとっては大切だ。
一度会いたい、分るね。
分るもんか! 誰が!
胸が騒ぐ。それはときめきでは全くなかった。不快な、いやな予感といったものだ。
白石がなぜここの電話番号を知っていたのだろう? ——いや、不思議じゃない。
S社にいることは知っている。編集部へかけて、いかにも「仕事のことで」という口ぶりで訊けば、誰でもこの番号くらいは教えるだろう。
気にしても仕方ない。希代子は肩をすくめた。
風呂に入り、じっくりとあたたまると、大分気分も落ちついてくる。
白石は、その気になればここを突き止めてやってくるだろう。でも、こっちさえしっかりして、突き放してやれば、それですむことである。
そう。 ——もう大丈夫。
希代子は、湯上りにいつもよりやや大きめの音で、アンドリュー・ロイド・ウェバーを歌うサラ・ブライトマンのCDをかけた。
——電話が鳴る。
留守電の応答テープが回り、かけて来た人間が吹き込む声も聞こえる。
「ただいま留守にしております」
応答テープは男の声。女の声だと、女の一人暮しと思われて、いたずら電話がかかるからだ。この声は、編集部の〈カズちゃん〉である。頼んで吹き込んでもらったのだ。
ピーッという音の後に、
「今晩は。まだ帰ってないだろうと思ったけど、一応かけてみました。もし ——」
「もしもし」
希代子は受話器を上げていた。
「やあ」
と、相手はびっくりした様子で、「今日は早いね」
「そう? いつもこれくらいには帰ってるわよ」
と、コードレスの受話器を持って、ベッドに引っくり返る。
「どう? 元気かい」
「まあね」
——大した話はない。分っているのだ。
藤《ふじ》村《むら》涼《りよう》はフリーのライターで、その世界では売れっ子の一人である。まだ三十二歳という若さ。方々の雑誌で署名入りの記事を何本も書いている。
希代子は、今の雑誌の前に編集に 係《かかわ》っていた少女向けの雑誌で、藤村に原稿を頼んでいた。
——人間、何となく波長が合うということがある。希代子と藤村も、いわばそんな間柄なのである。
「何かあったね」
と言われてギクリとする。
「どうして?」
「分るよ。長い付合いだ」
「そう長くないわ」
「そうかな。しかし、長い つもりさ」
確かに、藤村はもっと「長い付合い」の友人よりも、彼女のことを分っていてくれる。
「ちょっとあってね」
「何か仕事の悩み ——じゃなさそうだね」
「まあね、その内、ゆっくり話すわ」
「いつでも聞くよ。ところで、この間、〈M〉ってミュージカル、見た?」
こういう話になると、二人は一時間でも平気でしゃべっていられる。
しかし ——決して希代子と藤村は「恋人同士」というわけではないのである。藤村には今年二十歳という若い奥さんがいて、二つになる子供もいる。
何しろ結婚したとき、まだ花嫁は高校生だったのだ。希代子が藤村を知ったのは、その少し後だった。
今は藤村の家にもよく出入りし、奥さんとも親しい。恋人同士には決してなれないのである。
正直なところ、藤村に「男」を感じ、ときめいたこともある。たとえ報われなくても、「大人の関係」になっていたいと思ったこともある。
もし藤村がそうしてくれと言ったら、喜んで従ったろう。でも ——それは無理だった。
結局、希代子は藤村と「よき友」でいる道を選んだのである。それが辛くなかったわけではないが、少なくとも藤村と別れるよりは ましだったと言えるだろう。
「 ——じゃ、またね」
適当に切り上げておく。その方が、また話す楽しみが残るから。
切ってから、希代子はちょっと苦笑した。 ——何だか侘《わび》しいわね、私の生活も。
そして、奈保のことを思い出す。
あの子は今、 真《まつ》直《す》ぐに恋をしているのだ。希代子のような屈折した恋とは違う。若い日にしかできない恋を。
水《みず》浜《はま》邦《くに》法《のり》。——これが、奈保の恋の相手である。
青空。芝生。 ——そして女学生たち。
大学は今、花園のようだった。
もちろん、男子学生もいるわけだが、何といってもこの風景を形造っているのは、色とりどりのファッションに身を包んだ女子学生である。
希代子は、その大学のあまりの広さに、途方にくれていた。
編集者のいけないのは、どんな所でも行けば何とか捜し当てられる、という自信を、いつの間にか身につけているところである。だからろくに地図も見ないでパッと出かけたりする。
それでも何とか捜し当ててしまうところが実際ほとんどなので、つい大丈夫と思ってしまうのだろう。
今日も、とにかく「N大の文学部キャンパス」はここ、ということだけ調べて、出かけて来た。そうそう時間があるわけでもないので、この中を歩いて捜し回るのは、とても無理だ。
「でも……広い!」
と、ため息をつく。
都心の、狭苦しい大学で学んだ希代子にとっては、このまぶしいばかりの環境は、「大学」のイメージを一新するのに充分なインパクトを持っていた。
しかし、問題は、この広さの中で、水浜邦法をどうやって捜すか、ということ。
適当に誰か捕まえて訊けば分るだろうという計画(?)はまず通用しそうにない。
といって何時間もこのキャンパスの中を捜し回る時間はとてもない。
希代子は、しばらくキャンパスの芝生の真中に突っ立って考えていたが……。
「 ——よし」
と肯くと、勢いよく歩き出した。
もう迷うことはない、とでもいった様子だった。
十分後、休み時間になったキャンパスの中に、放送が流れた。
「文学部三年の水浜邦法さん、水浜邦法さん。お姉さんがおいでですので、文学部事務室までおいで下さい。くり返します。文学部三年の水浜邦法さん」
——いささか気は咎《とが》めたが、他に思い付かなかったのである。
謝ってすむことなら、やってみる。 ——これが編集者の「好奇心」を発揮するときの判断基準と言ってもいいだろう。
「どうもすみません」
と、希代子は事務の女の子に礼を言った。
「表で待っていますから」
「ここでお待ちになっても ——」
「いえ、大丈夫です」
と、事務室の外へ出る。
見られたくないのである。当の水浜邦法はびっくりしているだろうから。
外へ出入りするホールに立っていると、大勢の学生たちが忙しく行き交う。次の講義へと教室を移動しているのだろう。
どれが水浜邦法なのか、見分けようもないのである。
やれやれ……。とんでもないことを引き受けたのかもしれない。
すると ——少しためらいがちに事務室の方へやって来た若者がいた。
ちょっとインテリっぽいと言うとおかしいが、頭の良さそうな子である。背はそう高くないが、スタイルはなかなかいい。
事務室の窓口の前で、声をかけようかどうしようかと迷っている様子。もしかすると……。
「失礼」
と、希代子は言った。「水浜君?」
その男の子は、びっくりして振り向いた。
「そうですけど」
「良かった」
と、希代子は息をついた。「私、あなたの『お姉さん』」
水浜邦法は目を丸くして希代子を眺めた。
「 ——ああ、津山奈保ね」
と、水浜は 肯《うなず》いた。「憶《おぼ》えてますよ」
「そう。私、あの子の従姉なの」
「へえ。全然似てない」
「それ、どういう意味?」
と、希代子は笑った。
学生食堂は、昼休みというわけではないので閑散としていた。
「次の授業、あるんでしょ」
「いいですよ。別にさぼれないことないから」
「でも ——」
「せっかく、『お姉さん』が会いに来てくれたんだし」
そう言って、水浜は笑った。
なかなか気の合いそうな子だわ、と希代子は思った。
二十一歳。 ——三年生。希代子には遠い昔のことである。
「じゃ、奈保ちゃんのこと、憶えてるのね」
「ええ、コンサートの帰りに一緒にお茶飲んで……。でも、僕のこと好きだなんて、聞いたことなかった」
と、水浜も面食らっている様子。
「言えないもんよ、本当に好きなら」
「そうかなあ」
水浜は、希代子の話を面白がって聞いていた。
「ともかく ——それで、僕にどういう用だったんですか」
「私は奈保ちゃんの家庭教師として、彼女があなたのことばっかり思い詰めて何も手につかなくなると困るの。分るでしょ?」
「ええ」
と、水浜は肯いて、「つまり、奈保と付合うなってことですか。でも、現に付合ってないんですよ」
「逆よ。付合ってほしいの」
「え?」
と、水浜はびっくりしている。
「こういうことは、我慢しろって言っても無理なの。だから、ある程度のお付合いはしている方が、当人も生活に励みが出て、いいと思う」
「そんなもんですか」
「私は恋のベテラン ——でもないけど、少なくとも、奈保ちゃんの年齢を通過した一人の女として、言ってるの」
「分りました。じゃあ……」
「お付合いしてくれる?」
水浜は、少し考えていたが、
「奈保と付合って ——どうするんです?」
「彼女の夢を、ほどほどに 叶《かな》えてあげてほしいの。でも、もしあなたの方に本当の恋人がいて、そんなの無理ってことなら、どうしても、とは言えないわ」
「別に……いませんよ、恋人なんて」
「あら、そう?」
「もてないんです、僕みたいな文学青年のタイプって」
「そうかもしれないわね」
「言いにくいこと、はっきり言いますね」
水浜は少しムッとした様子で希代子を見ると、すぐに笑い出した。
「面白い人だなあ、あなたって」
と、水浜は言った。「何してるんですか、お仕事」
「何だと思う?」
水浜は、しばらく希代子を眺めていたが、やがて、うん、と肯いて、
「 ——タレントのマネージャー?」
と言った。