「マネージャー扱いされちゃったわよ」
と、希代子は電話で言った。
「じゃ、私のこと、話したのね? いやだ!」
と、奈保は言った。
「いやだ、じゃないでしょうが。話してくれって言っといて」
もちろん希代子にも奈保の気持は分っている。
彼に自分の気持を知ってほしいが、同時に知られて迷惑がられるのを恐れているのである。
「じゃ、詳しいことは明日、そっちへ行ったときにね」
「そんな! 何て言ってたか教えてよ、意地悪!」
全くね。損な役回りだ。
「あのね、お付合いしてもいいって」
「本当? ——やった!」
向うでは飛びはねているだろう。
「でもね、ちゃんと私の言うことを聞くのよ。でなきゃ、どこかへ閉じこめる」
「はあい、希代子さん、大好き!」
と、奈保は甲高い声を出して、「やった!」
と、また叫んだ。
「若いっていいわね」
と、電話を切って、希代子は肩をすくめる。
会社の一階、公衆電話でかけている。私用電話をかけるのは自分がいやなのである。
——編集部へ出て行くと、
「おい、希代子」
と、倉田が呼ぶ。
「何ですか、編集長」
と、行ってみると、
「これ……、上の方で 賞《ほ》められた」
希代子の主張した見出しである。
「やっぱりね」
と、 肯《うなず》いて、「フランス料理でいいです」
「おい、何ももらったわけじゃないんだぞ」
と、倉田は苦笑した。「俺をクビにさせないでくれよ」
「はいはい。妻も子もあるんですものね」
よっぽど、「恋人もある」と言ってやりたかったのを、何とかこらえた。
席へ戻って、〈カズちゃん〉こと、 太《おお》田《た》和《かず》也《や》へ、
「ね、何か私に伝言は?」
「はい……。これ……。何かよく分んないんですけど」
と、メモをよこす。
希代子は、メモを見た。〈連絡をとりたい。Pホテルに泊っている。白石〉
希代子は、
「この人、いつ電話して来た?」
と、訊いた。
「昼過ぎです。二時くらいかな」
「そう」
「知り合いですか?」
「昔のね」
と言って、希代子はそのメモをグシャッと握り 潰《つぶ》し、クズカゴへ捨てた。
「 ——ね、カズちゃん」
と、希代子は言った。
「はい」
「もし、白石って人からかかって来て、出たら、私はいつも留守よ」
太田は、ちょっと面食らっている様子だったが、
「分りました」
と、肯いた。
いちいち、うるさく言わないのが、この青年のいい所なのである。
「 ——はい編集部。——は?——ちょっと捜してみます」
太田は、希代子の方へ、「かかって来てるんですけど」
「白石?」
希代子は緊張した。
「いえ、別の人です」
「別の人?」
「でも、男の人で……。津山っていいましたけど」
津山? 奈保の父か?
「 ——もしもし」
と、出てみると、
「やあ、希代ちゃんか」
やはり津山 隆《りゆ》一《ういち》である。
「どうも。九州じゃないんですか」
「今帰ったところさ。奈保が色々手間をかけたそうだね」
「いいえ、仕事の内です」
「どうだい、今夜、夕食でも」
「私と……ですか」
「うん。いつも世話になってて、気にしていたんだ。良かったら、迎えに行くよ」
断り切れない内に、電話は終ってしまっている。 ——希代子は、いくらか割り切れないものを残しつつ、受話器を置いた。
津山隆一か。確かに、ちょっとすてきな中年ではある。
しかし、希代子はそれだけで男に 惚《ほ》れるほど若くもない。
いや、津山が「そんなつもり」だとは思わないが、以前からどこか希代子に興味を示していることは、感じていた。
でも ——まあ、食事くらいなら構わないか。
希代子は、できるだけ気楽に考えることにした……。
「おい、希代子」
と、倉田がまた呼ぶ。
「大安売りしないで下さい。何ですか?」
「すぐに人を脅す! ——全くね」
「すみませんね」
と、希代子は言ってやった。
「このページのコラム、変えたい」
と、倉田はめくったページを指して言った。
「え?」
希代子は戸惑った。藤村の書いているコラムなのである。
「いけませんか。面白いと思うけど」
「少し高級すぎる。上からそう言われたんだ」
「でも ——この人、今人気があるんです。こっちから断ったとしたら、もうやってくれませんよ」
「分ってる」
倉田の言い方は変らなかった。「ともかく交替だ」
これはだめだ。 ——希代子にも、それは分った。しかし、「友情の証《あかし》」として、ささやかな抵抗をせずにはいられなかった。
「じゃ、次の人は編集長見付けて下さいね。私、これ以上の人は思い付けません」
と言ってやった。
「ああ。もう見付けてある」
と、倉田はメモを渡して、「ここへ頼んでくれ」
聞いたことのないオフィスである。
「分りました」
気は進まないながら、言われたら、そうするしかない。
ともかく、藤村の所へ電話を入れた。
「 ——あ、藤村さん? 篠原です」
「やあ、どうしたの? 次の締切、まだだろ?」
「それがね……」
と、言い渋ったが、ちゃんと伝えなくてはならない。
話を聞いて、藤村は別にショックではないようだったが、
「君に会う口実がなくなるね」
と、笑った。
「ごめんなさい。編集長の命令で」
と、小声になって言うと、
「いいさ。仕事だもの。しょうがないよ」
と、藤村は気楽に言った。「じゃ、また ——」
「ええ。それじゃ」
とは言ったが……。
どうにも納得できなかった。
倉田が指示した新しいライターの書いたものを、いくつか捜して読んでみた。どう見ても藤村以上ではない。
しかし、今さら倉田に何か言ってもむだだろう。
希代子は、何か事情があるのだ、と思った。必ず、調べ出してやる!
そして倉田の方を盗み見たのだが、どこかいつもより老け込んで見える。
なぜだろう? 希代子は首をかしげた……。
「さ、飲んでくれ」
と、津山隆一がワインを希代子のグラスに注ぐ。
「どうも……」
たぶん、このワインだけでも、希代子の月給の何分の一かは飛んでしまうだろう。
名の知れた高級なフランス料理店である。
「 ——どうしてこんなこと」
と、食事しながら、希代子は言った。
「どうして? どうしてかな。君を誘惑する気じゃない。安心してくれていいよ」
と、津山は言った。
しかし、冗談めかしているものの、それが決してジョークではないと希代子には分っていた。
津山のセリフは、「君がそう望むのなら、構わないけどね」と付け加えているのである。
「 ——奈保のことだが」
と、津山は言った。「恋してるんだね」
「ええ。でも、あの年代なら、自然なことです」
「分ってる。しかし、あの子は子供だ。相手は?」
「それは……。言わないと約束しているから」
と、希代子は言った。
もちろんフランス料理で買収される希代子ではない。
「分るよ」
と、 微笑《ほほえ》んで、「そこが君のいい所だ」
「賞めてるんですか?」
と、希代子は笑った。「秘密って楽しいわ」
「うん、確かにね」
津山は、何となく意味ありげな言い方をした。
「叔父さん。 ——違ってたらごめんなさい。もしかして、誰か女の人がいる?」
津山は、ちょっと目を見開いた。
「 ——いる、と言ったら?」
「別に……。私の口出すことじゃないもの」
いるのだ。希代子はそう確信した。
「ところで、希代子ちゃん」
と、津山は言った。「以前、君が九州にいたころ知ってた男……。白石といったっけね」
食事の手が止る。
「 ——もう忘れたわ」
と、肩をすくめる。「白石がどうかした?」
「東京へ来ている」
「へえ」
「会いたいかね」
「ちっとも」
と、首を振って、「忘れた、と言ってるでしょう」
「それならいい」
と、津山は肯いた。
「でも ——どうして白石のことを叔父さんが?」
「仕事でつながりができた。本当に偶然だがね」
「白石と? そう……」
希代子は、食事を続けて、「でも、私は関係ないでしょ」
「もちろんさ。何かあったら言って来たまえ。僕でも役に立つことはあると思う」
——二人はしばし無言で食事を続けた。
「叔父さん」
と、希代子は言った。「今夜のこと ——こうして私と二人で食事してるってこと、叔母さん、知ってるの?」
津山は、不思議な目で希代子を見ていた。
「いや、言ってない」
「良くないわ」
「そうかね。しかし、僕はね、希代子ちゃんと秘密を作ってみたいんだよ」
津山の言葉に何があるのか、希代子にはつかみ切れなかった。
しかし、料理の味はともかく、重苦しいものが、希代子の胸にはたまりつつあるようだった……。