編集室のドアを開けると、
「あ、カズちゃん一人?」
と、希代子は言った。
「あれ、帰ったんじゃないんですか」
太田和也が机で顔を上げた。
「そのつもりだったけどね」
希代子は自分の机へ行くと、ショルダーバッグをドサッと机の上にのせて、 椅《い》子《す》に腰をおろした。——編集者のバッグは「何でも屋」だ。重くなるのである。
肩に食い込むようなその重さが、大して苦にならなくなれば、編集者も一人前ということかもしれない。
希代子は、大きく息をついて、頭を振った。
「どうかしたんですか」
と、太田が 訊《き》く。
「ワインで酔ったの。少し悪酔いね」
「へえ、強いのに、篠原さん」
「相手による」
「気に入らなかったんですか」
「まあね」
——津山隆一と食事をして、「送って行こう」と言うのを逃げるために、
「仕事、残して来てるの」
と言って、会社へ戻って来たのである。
ごちそうしてもらったのはありがたいが、味なんか正直なところよく分らなかった。
津山が希代子を誘惑しようとしているのは見えすいていたし、そんな気持が、とても希代子には理解できない。もちろん、津山隆一と希代子は血がつながっているわけではないにしても、 叔《お》父《じ》と姪《めい》の関係であり、しかも希代子は津山の娘の家庭教師だ。
「何を考えてんだか、全く」
と、つい口に出して 呟《つぶや》く。
「はあ?」
と、太田が不思議そうな声を上げた。
「いいの。何でもない」
ここまで来たものの、酔いが残って仕事をする気にもなれない。やらなきゃいけないことは色々あるのだが。
「カズちゃん、帰らないの」
「もう少し。 ——明日、休むんですよ」
「あら、そう。デート?」
「だといいんですけど」
と、太田が笑う。
気持のいい青年である。仕事と私生活をきちんと割り切ることを心得ている。
「私、帰ろうかな。もう少し酔いがさめたら」
と、伸びをすると、編集長のデスクの電話が鳴った。「直通だ。誰かしら」
「出ましょうか」
「いいわよ」
希代子は立って行って電話に出た。「はい、〈C〉編集部です」
「あの……倉田の家内ですが」
少しおずおずとした声が言った。
「あ、編集長の ——。篠原です」
「希代子さん? まあ、どうもごぶさたして」
と、向うがホッとしたように言った。
倉田の妻は希代子も知っている。何度か仕事のことで倉田の自宅にも行ったことがあるからだ。
希代子は誰にでも同じように明るく接するので、何かとつい気楽に話し相手になってしまう。
「いつも主人が」
「いいえ、とんでもない」
と、希代子は笑って、「いつもご主人に苦労をかけてますわ」
「まあ」
と、倉田の妻も笑った。
何といったっけ。 ——倉田雅《まさ》代《よ》。そう雅代さんだ。
「あの ——主人、今夜どこへ行ってるか分るかしら」
「編集長ですか。待って下さい」
希代子は、倉田の机の上を見た。特に外出のメモはない。すばやく送話口をふさぐと、太田の方へ、
「カズちゃん、編集長どこ回ってるか、分る?」
と訊く。
「いや……電話 ——」
「大丈夫」
と、ふさいだ送話口を見せて、「彼女と二人?」
「ええ。知ってるんですか」
「ゆうべ見かけたの。今夜も?」
「らしいです。何か、 噂《うわさ》じゃ結構深刻みたいですよ」
「そう……」
どう言おう? 少し考えて、希代子は、
「あ、お待たせして。特に何も書いてってないんですけど、残ってる子の話だと、ライターさんの所へ回るとか。どこかへ飲みに出てるんじゃないですか」
「そう」
と、倉田雅代は言った。「ちょっと ——娘が熱出して」
「あら、いけませんね」
「今夜は早く帰る、と言ってたんだけど……。ごめんなさい、お邪魔して」
「いいえ。何か連絡入ったら、お伝えしときます」
「ええ」
雅代は少し黙った。そして、
「希代子さん」
「はい」
「主人……女ができたんじゃない?」
感情を殺した、静かな声だった。
「さあ……。私はよく知りません。あんまり編集部にいないし」
逃げるしかない自分が、少し情なかった。
「お願い。本当のことを教えて」
と、雅代が早口に言った。「もう ——分ってるの。このところ、ずっと様子がおかしくて……。ね、希代子さん。あなたなら、本当のこと言ってくれるわよね」
希代子は、重苦しいものに押し 潰《つぶ》されそうな気がしていた。倉田との間がまずくなれば、ここにいられなくなるかもしれないのだ。
それはやはり今の希代子にとって、 辛《つら》いところだった。
しかし、倉田の妻にこう言われてしまうと……。
「 ——奥さん」
と、しばらくしてから、希代子は言った。「本当にどうなのか、私、知らないんです。ただ……噂があるのは事実です。すみません。それ以上のことは、私には申し上げられないんです」
「そう……。そうよね。ごめんなさい。私が無理を言ってるんだわ。分ってるの。ただ ——」
雅代が言葉を切る。「そう……。ごめんなさい。あなたに迷惑かけたみたいで……」
「そんなことありません」
と、希代子は言った。「奥さん。 ——元気出して下さい」
「ええ。ありがとう」
電話は切れた。
希代子は、ため息と共に受話器を置いた。 ——編集長ったら! はた迷惑だわ、本当に。
「知ってるんですか、奥さん」
と、太田が言った。
「分るわよ。夫婦ですもの」
希代子は、独身らしからぬことを言った。
「太田君……知ってる?」
太田は 肯《うなず》いて、
「経理の細川さんでしょ」
「細川っていったっけ」
「細川幸子。 ——でもね、まずいんですよ」
「そりゃそうでしょ」
「いや、それだけじゃなくて」
「というと?」
「細川さん、専務とも」
「え?」
専務といえば……。事実上、S社の出版を動かしているのは専務の西山である。
「西山専務と?」
「前からです。たぶん、編集長、それを知らないで……」
倉田は、そういう話には結構うといところがある。
「どうなるの、それじゃ」
「大変じゃないですか、専務の耳に入ったりしたら」
太田が知っているのだ。西山の耳に、やがて届かないわけがない。
希代子はふと、倉田が昼間、ひどく老けて見えたのを思い出した。
疲れた……。
自分のマンションに戻り、部屋へ入ってソファにいささかだらしのない格好で引っくり返る。
自分で働いて疲れたとか、何か自分のしくじりの後始末で駆け回ったというのならともかく、他人の浮気の言いわけでくたびれるというんじゃ……。
加えて、奈保の父の誘い。
よく言われることだが、「 隙《すき》がある」と見られているのだろうか。二十八になって、男の一人や二人、いないわけがないとか。
散々遊んでるから結婚する気になれないのだろう、とよく酔った男性から言われる。
「ご想像に任せます」
と、いつも希代子は言ってやるのだが。
「フン、鏡見てから、口説いてみろって」
と、希代子はやけ気味に呟いた。
ピーッと音がして、ファックスがカタカタと動き始めた。 ——何だろう?
起き上って、ファックスの方へ歩いて行くと……希代子は首をかしげた。しかし、
〈篠原希代子さんへ〉となっている。
〈僕のプロフィールです。身長一七〇センチ。体重五六キロ。視力左右とも〇・八。
特技 三分間息を止められる。
他に、N大オーケストラ、コンサートマスター。
他に何かききたいこと、ありますか? 何でもきいて下さい。
水浜邦法〉
飛びはねるような、元気のいい字。
あの子か! ——渡した名刺に、確かにファックス番号も入っている。
今の学生、自分用のファックスぐらい持っていておかしくはない。
微笑《ほほえ》みながらそのファックスを眺めていると、希代子の重苦しかった気分が、ずいぶん軽くなっている。特に〈N大オーケストラ、コンサートマスター〉という言葉に、思わず、
「へえ」
と、呟いていた。
コンサートマスターは、オーケストラの第一ヴァイオリンのトップである。つまり、オーケストラ全体のリーダー的な存在。もちろんヴァイオリンの腕も優秀でなければ、つとまらない。
あの子、ヴァイオリンひくのか。 ——見かけによらず、と言っては叱《しか》られるかもしれない。奈保から。
希代子は、着がえをして、もう一度ファックスを眺めた。
希代子もヴァイオリンをひく。いや、かつてひいていたことがある。
小さいころ、両親が習わせたのが初めだが、途中中断し、大学でもう一度やった。オーケストラにも入ったし、仲のいい子たちと室内楽で合せたりもした。
そう……。まだヴァイオリンはここの戸棚で眠っている。
水浜のファックスを見ている内、ふと懐しいものが希代子の中にこみ上げて来た。
音程、ちゃんと取って!
セカンドヴァイオリン、 揃《そろ》ってないぞ!
シンコペーションだぞ、ここは!
——先輩や、指導の先生たちに怒鳴られていた日々。
それでも、「定期演奏会」でブラームスとかメンデルスゾーンとかをやると、自分がウィーン・フィルかベルリン・フィルのメンバーにでもなったみたいな気がして、気持が高く高く 翔《と》んで行くように思えたものだ……。
大学時代、か。
わずか四年。 ——でも、他に換えがたい四年だった、あのころ。
ふと、胸が痛んだ。
ちょっとちょっと。感傷に浸るには少し若過ぎない?
でも、大学へ入ったとき、十八歳。今、希代子は二十八である。もう十年前のことなのだ。
希代子は、津山家へ電話をかけた。
「津山です」
津山隆一が出た。 ——希代子は、黙って切ってしまった。
何とも言いようがない。「ごちそうさま」とでも?
奈保にかけてやりたかったのだが、仕方ない。 ——どうせ明日会うのだし。
しかし、思い立つと、何だか落ちつかなかった。今のこの胸の痛み ——いや、痛みを連れた快感とでもいうか——がせつないほどにうずいてくる内に、奈保に知らせてやりたかったのである。
十五分待って、もう一度かけた。今度津山が出たら、もう 諦《あきら》めよう。
「 ——はい」
幸い、奈保が出た。
「あ、奈保ちゃん、私」
「希代子さん。どうしたの?」
「今しがたね、水浜君からファックスが届いたの」
「え? 私のことで?」
「まだそこまではね。取りあえず自己紹介」
「見たい!」
「明日、持って行ってあげる。なかなか面白そうな子ね」
「だめよ、希代子さん、 惚《ほ》れちゃ」
と、奈保が笑いながら言った。
「ちょっと! 大人をからかって」
と、希代子も笑う。「じゃあ、明日ね」
「はい! あ、お父さん、帰ってるの」
知ってる、と言いかけて、あわてて口をつぐむ。
「そう。良かったわね。じゃ、おやすみ」
代る、と言い出さない内に、希代子は電話を切った。
忘れないように、ファックスをたたんでバッグへ入れておく。
——この夜、希代子は棚からヴァイオリンを取り出して、かすかな音を響かせてみた……。