広い吹抜の空間に、 日《ひ》射《ざ》しが一杯に入る。
甲高い女の子たちの話し声、笑い声が、かげろうのように立ち上る。 ——日曜日。
希代子は、少しめまいを覚えた。
若さが、もう自分にはまぶしいのである。
それは少しショックだったが、しかしそんな様子を見せるわけにはいかない。
何しろ奈保が一緒である。笑われてしまいそうだ。
「ごめんね、希代子さん」
と、奈保が言った。「せっかくお休みなのに、出て来てくれて」
「ちっとも悪いと思ってないよ、その言い方は」
と、希代子は冷やかした。
「へへ」
と、奈保が舌を出す。
可愛《かわい》い。——もちろん、二十八の希代子が十七の奈保と「若さ」を競うのは無理というものだ。それは分っていても、今日の奈保は正に輝くようだ。
「恋してる!」
と、大声で叫んでいるみたいだった。
「まだ、時間?」
と、奈保が訊く。
「あと五分で約束の二時。 ——この人出じゃ、ちょっと迷うかもね」
「もっと分りやすい所が良かったかなあ」
「大丈夫。ちゃんと来るでしょ」
と、希代子は言って、「 ——あ」
花束が一つ、希代子の目の前に差し出された。
「待ちましたか」
と、水浜邦法は言った。
「いいえ。いつ来たの? 気付かなかった」
実際、水浜は大学で見たときと全く違う印象だったので、希代子はすぐそばに来ても分らなかったのである。
「これ、どうぞ」
と、水浜は花束を希代子に渡した。
「私に?」
「ええ。 ——やあ」
と、奈保の方へ向いて、「君にはこっち」
背中へ回していた左手が出ると、希代子のもらったのよりずっとカラフルな花束が現われた。
「ありがとう! きれい!」
奈保がポッと 頬《ほお》を染めた。
「何だ。私は引き立て役ね、要するに」
と、希代子は言って、「じゃ、水浜君、奈保ちゃんをよろしくね」
「はい」
と、水浜は 肯《うなず》いた。「夜、八時までにお宅にお送りします」
「八時なんて! 子供じゃないんだから」
と、奈保が口を 尖《とが》らす。
「ま、初めてのデートよ。我慢しなさい。水浜君、お花ありがとう」
「いいえ」
水浜は、ずいぶん大人びて見えた。こんなきざなやり方が、少しもいやみにならない。
何だか不思議な子だ。
「じゃ、私、これで」
と、希代子は言った。「それじゃ、奈保ちゃん」
「うん。ありがとう」
と、奈保は言ったが、もう心は希代子のことなど忘れている。
希代子は歩き出して、足を止め、振り返った。
奈保と水浜はおしゃべりしながら歩いて行き、とりあえず、これからどうするか決めようとでもいうのか、目の前の喫茶店に入って行った。
コーヒー一杯、紅茶一杯で何時間でも過せるのが、若いということなのかもしれない。津山隆一のように、高級フランス料理の店に連れて行けば、女はなびくとでも言わんばかりの男よりもよほど健全というものである。
奈保たちは、ちょうど表から見えるテーブルについていた。 ——もう、奈保はテーブルに肘《ひじ》をつき、身をのり出すようにして、話し込んでいる。
水浜は軽く足を組んで、小さく肯いている。
もう、ずっと前から付合っている、とでもいうような二人だった。
希代子はしばらくその二人を眺めていた。当然、二人からも、ちょっと目を表の方へやれば希代子が見えたはずだが、一向にその気配はない。
「恩知らずめ」
と、笑って呟くと、希代子は足早に歩き出した。
「 ——どうも、ご苦労様」
希代子は、そのスタジオへ入って行くと、顔見知りのカメラマンに軽く頭を下げた。
「やあ、どうも」
大分中年になって腹の出たカメラマンは、格別暑いわけでもないのに、汗をしきりに 拭《ぬぐ》っている。
「おい、おしぼり!」
と、助手に怒鳴って、「今日は編集長、来るの?」
「そのはずです」
と、希代子は肯いた。「大切なイメージカットですから」
「モデル次第で決るね。 ——ま、あんたたちが選んだんだ。間違いないだろう」
「もう来ると思うんですけどね」
と、希代子は腕時計を見た。
売れっ子とはいえ、モデルという仕事は大変だ。時間に遅れるなんてことは許されないのである。
「おはようございます」
噂をすれば、で、モデルが大きなバッグを肩からさげてやって来た。
二十三、四の、若いが切れ味のいいポーズを作るモデルで、今売れている。こういうモデルを使えること自体、雑誌が一流の証拠になる。
「 ——じゃ、仕度して。スタイリスト」
「奥に」
と、助手がおしぼりをカメラマンに渡す。
「よし。 ——どうする。編集長、来てないけど」
「始めて下さい。追っつけ来ますよ」
と、希代子はためらわずに言った。
少しでも多いカットをとっておくべきだ。何十本ものフィルムを使って、一枚使えるかどうか。それが当然の世界である。
「おい、バック、もう少し暗めに!」
カメラマンも仕事に入った。「その辺に椅子。 ——うん、それだ」
希代子は、スタジオの隅で立っていた。
カメラマンが立って忙しくやっているときに自分が座っているわけにはいかないのである。
しかし……時間はもう五分前。倉田はどうしたのだろう。
まだ少し間がある。そう判断して、希代子はスタジオの入口にある公衆電話へと走った。
「 ——もしもし」
倉田の自宅へかける。「 ——あ、篠原です。ご主人、いつごろ出られました?」
雅代が、少し黙っていてから、
「ゆうべ、帰ってないの」
と言った。
「え? でも……。そうですか、すみませんでした」
「希代子さん」
と、雅代は言った。「話をしたの、おとといの夜。でも、主人は何もないと言うだけで」
重苦しい声。ほとんど眠っていないのではないか。
「そうですか。 ——困った人ですね」
少し軽く言ってみる。「でも、ちゃんと奥さんの所へ戻りますよ」
「でも ——もう本当におしまいかも」
「そんな……」
希代子は、スタジオの前にタクシーが 停《とま》るのを目にした。倉田だ。——ここで倉田を出すわけに行かない。
「じゃあ、奥さん。もしみえたら、奥さんが心配なさってたと伝えますから」
少し唐突だったかもしれないが、電話を切ると、急いで表へ出る。
「編集長。もう始まりますよ」
「ああ、すまん」
と、倉田が肯く。
「モデルの服を ——」
と言いかけて、タクシーから もう一人降りて来るのを見て言葉を切る。
「知ってるだろ。細川君だ」
と、倉田は言った。
細川幸子は小さく会釈した。
「じゃ、中へ」
希代子は先に立ってスタジオの中へ入って行った。
「やあ!」
カメラマンが手を振る。「何だ、 白髪《しらが》がふえたな」
「苦労が多くてね」
と、倉田は笑った。「今日はカラーとモノクロ、両方頼む」
「分ってる。何か、小さいものに使う予定あるか? テレホンカードとか」
「さあ……。万一のために、それ向きのもとっといてくれ」
「分った。あんまりのんびりしてられないな、そうすると」
希代子は、隅に立っていた。
細川幸子は、さらに隅の方へ引っ込んで、バッグを手に持ったまま、じっと倉田の方を見ている。
希代子は、少しためらってから、
「ね、座ってた方がいいわよ。疲れるわ」
と、小声で言った。
「あ……。でも、大丈夫」
「私たちは仕事だから座れないの。でも、あなたは……。そこへ座ってれば大丈夫よ。邪魔なときはそう言われるわ」
「ありがとう」
細川幸子には、希代子の示してくれた親切が意外だったらしい。ちょっと見せた笑顔は本心からのものだった。
モデルが現われた。 ——カメラマンがポーズをつける。モデルがさらに自分でそれをデフォルメして行く。
「OK。始める」
ライトが 点《つ》く。助手が露出計片手にモデルとカメラの間を振り子のように往復する。
カメラマンも、もう流れ落ちる汗を拭おうともしない。プロの現場なのである。
倉田も、そばで次々に注文を出す。 ——もう細川幸子の存在など、忘れてしまっているようだった。
「 ——よし! じゃ、衣《いし》裳《よう》を変えて」
と、カメラマンが言って、一息ついた。
倉田が希代子の方へやってくる。
「どうだ?」
「いいんじゃないですか」
と、希代子は言った。「ちょっとモデル、可愛すぎるような気もするけど」
「大丈夫。写真になると大人にうつる子だ」
と、倉田は自信ありげだ。
「編集長。 ——細川さん、放っといていいんですか」
「ああ……。いや、ちょっと ——」
と、口ごもって、「君……何かその辺で飲ましてやってくれないか」
「いいですよ」
「な。ここにいても面白くないと思うし」
「じゃ、ご自分でおっしゃって下さい」
「うん」
倉田が細川幸子の方へ行って、かがみ込んでしゃべっている。
カメラマンがチラっと希代子の方を見ると、小指を立てて見せた。希代子は小さく肩をすくめる。
「じゃ、希代子、頼む」
「ええ。それじゃ、行きましょ。 ——三十分くらいで戻ります」
「ああ」
細川幸子は黙って希代子についてスタジオを出た。
外へ出ると、
「この近くに、生ジュースのおいしい店があるの。そこ、どう?」
と、希代子は言った。
「ええ」
——意外に、細川幸子は控え目な女性だった。
二十七歳というから、希代子の一つ下、というだけだが、見たところずいぶん若く見える。
この子が、専務の愛人? ——少々信じられないような話ではあった。
——ジュースは、いつもながらおいしい。
「どう?」
「ええ。おいしい」
と、細川幸子が肯く。「大変ですね、編集って」
「そうね。でも、自分の仕事が形になって残るから」
「そうですね」
「ああ、でも、もちろん、経理だって大切じゃない。ものは考えようよ」
と、急いで言った。
細川幸子は、ちょっと微笑んだが、それだけだった。
二人はそれきり黙ってジュースを飲み、飲み終ると、何となく目をそらしていた。
「 ——三十分て長いわ」
と、細川幸子が言った。「待ってる三十分って」
「そうね」
「私……二十七年間、待ってた」
細川幸子の言葉が唐突で、希代子は戸惑った。
「あのカメラマン、 凄《すご》い汗かきですね。いつも?」
と、話が変る。
「ええ。太ってるせいかな。あれだけ汗かいても、やせないの」
「でも……プロだな、って思う」
と、細川幸子は表の方へ目をやって、「私は何のプロなんだろう、って思うの」
「あなただって……」
「愛人のプロ? そう言いたいんでしょ」
呟くような言葉だった。挑むようでも、卑下するようでもない。
「そんなこと思ってないわ」
と、希代子は首を振った。「人、それぞれに事情があるし、特に好きとか嫌いとかは、人が口出すことじゃないもの」
細川幸子は少しホッとしたように希代子を見て、
「ありがとう。やさしい人ですね、篠原さんは」
「 係《かかわ》り合いたくないだけ。編集長の奥さんもよく知ってるし」
「ええ」
と、幸子は肯いて、「私も知ってます」
「奥さんを?」
「ええ。私、雅代さんの 従妹《いとこ》ですから」
思いもかけない言葉だった。
「倉田さんが私のこと、心配してくれたのも、初めはそのせいだったんです。妻の従妹が、会社で専務の愛人になってる、って……。それで、奥さんにはそう言えなくて」
「じゃあ、編集長、それを知ってて?」
「もちろんです。何とか西山専務との間を清算させようとして……。その内に私と……」
幸子の 眉《まゆ》がくもった。「倉田さんにとっては命とりなんです。専務に嫌われたらどうなるか。——でも、あの人はそれでもいいと言って……」
意外な話に、希代子は当惑した。
「じゃあ……クビを覚悟で?」
「ええ。本人はもうそのつもりです」
希代子は、沈黙した。何を言うことがあろう。何が言えるだろう。
でも ——倉田の妻のことはどうなるのか。
人と人。愛と憎しみと。
希代子には、触れたくない世界だった……。