タクシーの中で、希代子はまたウトウトしていた。
疲れているという自覚はなかったのだが、体より、むしろ気疲れだったろう。
食事はすませた。もう夜も十時を回ってしまっている。
ふと、思う。奈保と水浜の初デートはどんな風だったのだろう?
若い二人。 ——世のしがらみや、力や金と無縁の愛情。それは何て単純で、しかし快いほど爽《さわ》やかだろう!
希代子は、夕方、藤村の所を訪ねた。
突然だったのだが、歓迎してくれ、夕食も一緒にと言われた。本当のところ、希代子はそのつもりもあって訪ねたのだが、いざ藤村と若い妻と幼い子供を目の前にすると、何だか目に見えない壁が自分とその三人をへだてているような気がして、
「仕事を思い出した」
という最低の言いわけをして、失礼して来てしまったのである。
そして、自分がいない方が、あの人たちだって本当はホッとしているのだと……。別にいじけるわけではないが、そう思ったりもした。
一人、夕食をとって、マンションへ帰る前に軽く飲んだ。
そしてタクシーの中だ。
長い一日だった……。希代子はつくづく思った。
「 ——どうも」
と、運転手がおつりをくれる。
希代子は、タクシーを出て、マンションへ入って行く。
それを見ている男の姿は、暗がりの中に溶け込んで、希代子には全く見えなかったのである。
——部屋へ入って、希代子は明りを点けた。
今日はちゃんと着がえをするまで、立っていられた。
ファックスが三枚来ていた。一枚は仕事の打ち合せ時間の変更。
一枚は水浜からのもので、
〈奈保さんを無事、自宅へ送り届けましたのでご安心下さい。八時を少し回ってしまいましたが、申しわけありません。
水浜〉
「愛想ないのね」
と、肩をすくめる。
もう一枚を見て、希代子はハッとした。
〈会いたい。 白石〉
B5の用紙に、大きな字でそれだけ。
どこか、普通でない気がして、希代子はゾッとした。
電話が鳴った。留守電になっている。
ピーッと鳴って、
「希代子さん。奈保よ」
と、声が聞こえた。
急いで受話器を上げる。
「やあ、不良娘」
「希代子さん! 帰ってたの!」
「今ね。どうだった?」
「雲の上にいるみたい」
「言いたいことを言って」
と、笑うと、「ちゃんとこの間の宿題、やっとくのよ」
「はあい」
「どうしたの、あれから?」
「美術展とか見て……。何してたんだろ? ともかく ——彼と一緒だったの」
好きにしろ、とでも言ってやりたい。
「で、次はいつとか?」
「あの人、希代子さんの許可取らないといけないと思ってるみたい」
「当然よ。ま、そっちで決めてもいいけど、知らせてね」
「うん。分ってる」
と、奈保は言った。「彼、ヴァイオリンひくのよ。希代子さんもやるって言っといたわ」
「やめてよ。あっちはコンサートマスター。こっちは超素人よ」
「私、何だかさっぱり分んないけど、今度コンサートあるんですって。彼がひくの。行くんだ。希代子さん、行かない?」
「あら、私がいちゃお邪魔じゃないの?」
と、希代子は言ってやった。「もし時間があればね」
「一緒に行こう! ね?」
「はいはい。デートまでお手伝いさせられるの?」
と、笑って、「じゃ、よく寝るのよ」
「無理よ! 幸せすぎて眠れない」
と、奈保は天に舞い上りそうな声で言った。
電話を切ると、希代子は苦笑した。
これで、奈保が落ちついて勉強に身を入れてくれるといいのだが。
——風呂へ入って、のんびりとお湯につかりながら、やっと一日の疲れが抜けて行くのを感じた。
いや、むしろ騒いでいた血が鎮まって行くという感じだろうか。
奈保と水浜。倉田と細川幸子。
あまりに違う二組の恋を、身近に見てしまった、その興奮だったろうか……。
奈保と水浜を会わせたのは、むろん一つの 賭《か》けである。奈保がますます勉強なんか手につかない、という状態になることも多分にあり得る。
しかし、今のところ、水浜は信用していいように思えた。見た目より、ずっと大人である。
奈保をうまくリードして、決して踏み外さない付合いをしてくれそうな気がする。
ともかく始めてしまったのだ。しばらくはこのままやっていくしかない。
風呂を上ると、希代子は早々にベッドへ入り、そのまま眠り込んでしまった。そして次の日の昼過ぎまで、一度も起きなかったのである……。
「やあ」
編集部へ入って行くと、希代子は太田和也の方へ声をかけ、ついでに 大《おお》欠伸《あくび》した。
「寝不足ですか」
と、太田が笑う。
「逆。寝過ぎ」
と言って、「編集長まだ?」
「ええ。連絡ないです」
「たるんどる」
と、空の席をにらんでやった。
「昨日、どうでした、撮影?」
「うん、良かったよ。編集長も のってたし」
と、椅子にかけ、机の上のメモを手早く見る。
急ぎの連絡をすませて、ホッと息をついていると、
「ちょっと!」
と、編集部の女の子が一人、駆け込んで来た。
「大変! 編集長交替ですって」
一瞬、ポカンとした間。
「えーっ!」
「うそ!」
と、女子学生みたいな声が上る。
希代子は、思わず、空の椅子へと目をやった。
「誰が言ってたの?」
「今、廊下に掲示が出た」
ワッとみんな立って出て行く。
太田と希代子は残っていた。
「 ——やっぱりね」
と、太田が首を振って、「やばいと思ってた」
「そうね」
希代子は、編集長の机の電話が鳴り出して、急いで駆け寄った。「 ——はい!」
「希代子さん?」
「あ、奥さん。今、編集長のこと ——」
「主人、会社にいる?」
「いえ。見ていません」
「帰ってないの。それだけじゃなくて、何だかおかしい……」
「おかしい?」
「ゆうべ妙な電話入れて来たりして」
「ご主人が?」
「ええ」
間があった。怖いような間が。
「希代子さん。 ——主人、死ぬつもりかもしれない」
と、雅代は言った。
「奥さん……」
希代子は、さほどびっくりしていない自分が意外だった。「落ちついて。ともかく心当りに電話を」
「ええ。 ——ええ、そうね」
「私もかけてみますから」
希代子は、まず経理へ内線をかけて、細川幸子が休んでいることを確かめた。
そのころには、編集長が代るということは社内中に広まっていた。
希代子は、仕事の関係で倉田と親しくしていた人たちへ次々に電話をかけまくったが、誰も倉田から連絡をもらった者はいなかった。
倉田が自殺? いや、細川幸子と心中したのかもしれないという思いと、同時に、そんなこと、するはずがない、という思いとが相半ばして、希代子も迷っていた。 ——でも、万が一ということもある。
もちろん席で電話すれば、その噂が社内をかけ巡るだろうから、下の公衆電話を使った。
希代子が一つ電話を終えて、テレホンカードを抜くと、
「希代子」
と、後ろで声がした。
振り向く前に、分っていた。
「どうも」
と、希代子は言った。
白石は、軽く息をついて、
「やっと会えたな」
「用なんかないでしょ」
と、希代子は言った。「忙しいの」
「どうして連絡してくれない」
「用がないから」
とくり返す。「何しに来たの?」
「君に会いに、じゃいけないか」
白石は、ずいぶん老けて見えた。
「帰って。忙しいの」
と、希代子は言った。
「分った。今は帰る。 ——いつ、会える?」
「分らないわ」
「希代子。 ——君が怒ってるのは分る。しかし、俺は——」
背広姿の白石は、どこか弱々しい平凡な男だった。かつて、希代子を捕えた 逞《たくま》しさは、どこにもない。
「篠原さん!」
太田が駆けて来て、足を止めた。
「どうしたの?」
「あの ——電話が。編集長から」
「行くわ!」
希代子は駆け出した。
「希代子! また来るぞ」
白石の声は、もうずっと後ろにあった。
「やあ」
と、倉田が言った。
「編集長……」
希代子は、ドアを押えてくれる倉田のそばを抜けて、その部屋の中へ入った。
小さなマンションの一室。
カーテンを引くと、薄暗かった。
「ここは?」
と、希代子は上って言った。
「彼女の部屋さ」
「細川さんの?」
「うん。 ——彼女自身の部屋じゃないが。ここは西山専務が買って、彼女と会うのに使っていた所だ」
「へえ……」
陰気な部屋だ。 ——道ならぬ恋にはぴったりなのだろうか。
「座ってくれ」
と、倉田は言った。
「編集長 ——」
「もう僕は編集長じゃないよ」
「でも……やっぱり私には編集長です」
と、希代子は言った。
「ありがとう」
と、倉田は肩を落として、「疲れたよ」
「そうでしょうね」
「いや、彼女とのことに、じゃない」
と、倉田は首を振った。「どんなに辛くても、彼女との恋は楽しかった。女房にすまないという気持はあったが」
「じゃ、仕事に疲れたんですか」
「上役の顔色をうかがうことに疲れたのかな」
と、倉田は笑った。「君が 羨《うらや》ましいよ。君は自由で、しかも才能がある。何ものにも縛られない」
「言いたいことはあるけど、やめときます」
「僕がいないと、後は大変だと思う。次の編集長はたぶん外から来る。 ——君、やめないで、あそこにいてくれ」
「編集長……」
「君までいなくなったら、あの雑誌はやっていけない。みんなが苦労する。やりにくいだろうが、頼む」
希代子は、倉田を見て息をつくと、
「できるだけのことはやります」
と言った。「それ以上はお約束できません」
「分った。充分だよ」
倉田は肯いて、「ありがとう」
「いいえ」
希代子は、首を振って、「奥さん、心配されてますよ」
「分ってる」
「細川さんは?」
「今、出かけてる。じき戻るだろう」
「まさか ——死ぬつもりじゃないですよね」
と、口に出してみる。
「死ぬ、か……。死んで貫ければ、愛なんて楽なもんだ」
と、倉田は言った。「後に 遺《のこ》される者のことを考えたら、死ねない。それが普通じゃないか?」
「ええ。 ——生きていれば、やり直せます」
と、希代子は言った。「死が美しいのはドラマの中だけ」
「うん」
と、倉田は肯いた。「そうだな」
二人はしばし黙った。
「悪かった。わざわざ来てもらって」
と、倉田が立ち上った。
「どうするんですか、これから」
「ゆっくり考えるよ。 ——女房に、心配するなと言ってくれないか」
「無理ですよ」
と、苦笑して、「ご自分が帰らなきゃ」
「ともかく、僕が生きてるってことだけでも、頼む」
「分りました」
希代子は立って、玄関へ出た。「 ——じゃ、編集長……」
「ありがとう、色々と」
——そのマンションを後にして、少し行くと、希代子は足を止めた。
倉田はなぜあそこにわざわざ自分を呼んだのだろう? あの話なら、電話でもすみそうなものだ。
でも……。
歩き出して、少し行ってまた止り、希代子はマンションへと戻って行った。
不安がふくらんで、自然、足どりは速くなって行った……。