仕事は休まない。
たとえ、社員の誰かが悲劇的な死をとげたとしても、仕事はそんなことなど見向きもしないのである。 ——仕事は休まないのだ。
たとえ社員が浮気をしようが、ノイローゼで会社を休もうが、虫歯が痛かろうが、仕事はそんなことにはお構いなしだ。
何があっても、仕事は休まないのである。
「 ——篠原君」
と、やけにオー・デ・コロンの 匂《にお》いのきつい男は言った。「ちょっと来てくれ」
「はい」
希代子は、立ち上った。電話でもかかって来てくれたら、「今忙しいんです」と言い返せただろうに。
「会議室へ来てくれ」
と、久保田は言って、ファイルを抱えるとさっさと先に立って歩いて行く。
「気が重いわね」
と、希代子は顔をしかめて 呟《つぶや》いた。
「頑張って」
と、太田和也が言った。
「何を頑張るのよ」
と、希代子は苦笑した。
「だって、新編集長のお呼び出しですよ。希代子さん、何か言いたいこと、あるんじゃないですか」
「私は平社員でさえないのよ」
と、希代子は言い返した。「ともかく、行かないわけにもいかないしね」
〈C〉の編集部を出て、会議室へ足を運ぶ。足どりは、つい重くなった。
「座ってくれ」
と、久保田は立ったまま言った。
空いた会議室である。 ——いくらも座る所はあったが、希代子はドアに近い椅《い》子《す》をかりて腰をかけた。
「色々……大変だったね」
と、久保田は言った。「僕も突然のことでね、戸惑ってる」
久保田は、きちんと三つ 揃《ぞろ》いにネクタイというスタイルで、およそ編集者という雰囲気ではない。
希代子は何も言わずに、久保田が言葉を続けるのを待っていた。
——頭では分っている。「仕事は休まない」のだ。
しかし、倉田との間がうまく行っていたせいもあって、突然今日から久保田が編集長と言われても、ピンと来ないのである。
「実際に、〈C〉の編集で一番古かったのは君だろう」
「古いといっても……。私は契約社員ですし」
「分ってる。君にあれこれ責任をしょい込ませるつもりはない。責任はあくまで僕が負うことになる」
と、久保田は言った。「しかし、とりあえず君に全体を見ていてほしいんだ。他にはやれる人間もいない。それに ——」
と、少し間を置いて、久保田は続けた。
「君を正社員にすることも考えている。ちゃんと上司にもその辺のことは話してある。ただ、今は難しい時期だからね、すぐというわけにはいかないだろうが」
馬の目の前にニンジンをぶら下げて、ってわけか。 ——希代子は、当然こんな話も出るだろうと思っていたので、特に驚きはしなかった。
「それで ——」
と、久保田がファイルを開いていると、ドアが開いて、
「編集長、お電話ですが」
「分った、篠原君、待っててくれ」
久保田が急いで出て行く。
希代子は一人になると、ホッと息をついた。
分っている。倉田の後に編集長になったからといって、何も久保田が倉田を追い出したというわけではない。久保田のことを嫌ったりすげなくしたりするのは筋が通らないだろう。
それでも ——どうしても、抵抗がある。
妙なものだ。あくまで「ビジネス」と割り切っているつもりだったが……。
希代子は、立ち上ると、広い窓の方へ寄って、表を眺めた。
どんよりと曇った日で、何かいやなことが起りそうな午後である。
「いやなことなら、もう昨日充分に起ったでしょ」
と、希代子は呟いた。
昨日? ——あれは、昨日のことだったのか。まるで何日もたっているかのようだけれど。
——倉田のいたマンションへとって返した希代子は、倉田と細川幸子が二人で薬をのんで人事不省に陥っているのを発見したのだった。
もちろん救急車を呼び、やれるだけのことはした。取り乱して、連絡が遅れたということもない。
それでも、希代子は自分を責めないわけにはいかなかった。どうしてああなることを予想しなかったのか。もう少し早く、気付かなかったのか……。
二人は入院し、もちろん倉田の妻、雅代は病人にずっとついている。夫と、その恋人 ——自分自身の従妹《いとこ》に。
「死なない、って言ったのに」
と、恨みごとのように希代子は言った。
同情しながらも、腹を立てていたのだ。あんなときに、 嘘《うそ》をつかなくたっていいじゃないの、と——。
久保田が戻って来た。
「病院からだ」
と、 肯《うなず》いて見せて、「二人とも、手当が早かったので、助かったそうだよ」
希代子は、少し間を置いて、
「そうですか」
と言った。
嬉《うれ》しかったが、すぐには喜ぶ気になれない。ともかく、生きていたということ、それは本当にすばらしいことだが。
「ひと安心だな」
と、久保田は息をついて、「前任者に何かあったら、こっちもいやだからね」
いかにも久保田らしい言い方である。
ともかく ——良かった。希代子は、この先のことを考えると、気が重かったが……。
何といっても、倉田と雅代、そして細川幸子の三人は、この後も問題を抱えて生きて行かなければならないのだ。
「君の連絡が早くて、助かったと言ってたよ」
久保田の言葉は、思いがけないものだった。
「 ——本当ですか」
「うん、奥さんが、くれぐれもよろしく言ってくれってことだった。君は落ちついてるんだなあ。さすがだ」
それを聞いて、突然希代子の目に涙が 溢《あふ》れて来た。自分でも、思いもよらない涙だった。
「すみません。 ——ちょっと失礼します」
希代子は急いで会議室を出ると、洗面所へ駆け込んで、顔を洗った。
「しっかりしなさい! この泣き虫が」
と、鏡の中の自分に向って言って、大きく息をつく。
何かが、希代子の中でふっ切れたようだった。倉田も、雑誌のことを頼む、と言っていたのだ。
この社内でのごたごたで誌面の力が落ちたら、倉田も嘆くだろう。ともかく、できるだけのことはやろう、と、希代子は思った。
「 ——失礼しました」
と、会議室へ戻ると、久保田がいやにリラックスした様子で椅子にかけている。
「いや、いい涙だった」
と、久保田は暖かい笑顔を見せて言った。
「見ないことにするもんですよ、女の涙は」
と、希代子は久保田をにらんで、笑った。
「いや、君が倉田君のお気に入りだったことは知ってるし、何しろ有能な編集者というので、こっちも少々身構えてた。しかし、君は本当にいい人だなあ」
「いい人、ってほめ言葉になってません」
と、希代子は椅子にかけ、「さ、仕事の話ですね」
「うん。 ——とりあえず今の態勢で行くとして、分担はどうしたらいいと思う?」
「それは新編集長がどれくらい早く、仕事を憶えられるかによりますね」
「おいおい、そうプレッシャーをかけるなよ」
と、久保田は苦笑した……。
「 ——よし」
と、希代子は奈保のやった練習問題を見終えて肯いた。「できてる。この調子なら、この間のひどい点は取り返せるわ」
「これが実力」
と、奈保が、力こぶしを作って見せる。
「恋の力でしょ、違う?」
「希代子さんたら、からかって!」
と、奈保は声を上げて笑った。
この前、この津山邸へ来たときの奈保とは別人のよう。「もの思う人」から「宙を舞う人」という感じだ。
「この字ね。見て、よく読めないわ。せっかく合ってるのに、こんなことで点を引かれたらもったいない。もっとていねいに書いて」
「はあい」
「素直になってよろしい」
と希代子は奈保の頭を軽くなでてやった。
「子供扱いしないで」
と、奈保は希代子をにらむ。
「はいはい、もう恋人もいるんだものね」
「そうよ」
と、奈保は得意げに言って、「でも ——苦しいのね、恋って」
「何よ、いきなり」
「電話がかかってくると、胸がときめくでしょ。でも、何日かかかって来ないと、どうしたのかしら、具合でも悪いのかしら、って心配になる。電話で話してても、ちょっと間が空くと、向うが退屈してないかしら、私と話してて、がっかりしないかしら、って心配になるの」
「ふーん。恋も大変だ」
「そう! 大変なのよ、恋って。知ってた、希代子さん?」
「こら。いくつだと思ってるんだ」
と、希代子は奈保のおでこをつついてやった。
「さ、次は国語。教科書を出してね」
——今のところ、奈保と水浜を会わせてやったことはいい結果を生んでいる、と希代子は思った。
奈保はいい点を取って、水浜と安心して出かけたいと思って頑張っているのだ。
こういうえ《ヽ》さ《ヽ》でつるのは感心できることではないにせよ、恋はどうしたって止めておくわけにはいかないのである。それならいっそのこと、恋がうまく楽しみになるようにコントロールしてやることだ。
それにしても ——希代子はくり返し、考える——この恋と、倉田と細川幸子の恋。どっちも「恋」でありながら、こんなにも遠く離れているのだ。
「ね、希代子さん、大変だったんだって?」
と、奈保が中休みのお茶菓子を食べているときに言った。
「え?」
「お父さんから聞いた。編集長が自殺しかけたって? 女の人とだってね」
どこから津山がそんなことを聞いたのだろう。 ——希代子は肩をすくめて、
「大人になるとね、色んなことがあるのよ」
と言った。「恋をしてること自体を、悪いって責めても始まらないの」
「うん、分る」
と、奈保が肯いて、「人を好きになるって、理屈じゃないよね」
「分ったようなこと言って」
と、希代子は笑った。「でも、恋する気持はいつも同じよね」
「希代子さん ——。今、誰かに恋してる?」
「今?」
そう 訊《き》かれることは、あまりない。少々面食らった。
「そうねえ……。してるといえばしてるし、してないと言えばしてない」
「ずるいよ、そんな言い方!」
「奈保ちゃんはね、自分の恋だけ見つめていなさい」
と、希代子は言った。「いつだっけ、あの子の出るコンサートって」
「来週の土曜日。行くでしょ、希代子さんも?」
「そうね……。仕事が入るかどうか。でも今のところ大丈夫だと思う」
「行こう! 私、何の曲聞いても、クラシックってみんな同じに聞こえちゃう」
「私が説明してあげるわよ」
「水浜さん ——上手なのかな、ヴァイオリン」
「そりゃそうでしょ。何か一曲弾いてもらえば?」
「うん。今度頼んでみよう」
と、楽しげに言って、「ね、希代子さんのヴァイオリンって、聞いたことない」
「お聞かせするほどのもんじゃありません」
と、希代子は澄まして言ってやった。
「 ——これ、チラシ。私、持ってるから、あげるね」
と、奈保が四つにたたんだチラシをくれる。
開いてみて、写真も何もない、ただ〈N大管弦楽団定期演奏会〉という文字に、目をひかれる。
ふと、懐しさがこみ上げてくる。懐しい大学生のころの「若さ」が。
きっと、行こう。仕事は何とかなる。
行ってみよう。 ——そう、希代子は心に決めていた。