何でこうややこしいの?
——希代子は、病院の廊下を、矢印を追って歩きながら、ため息をついた。
古い建物で、増築をくり返したのだろう、廊下から階段、渡り廊下、と迷路のようにつながっている。
「 ——これじゃ、見舞客が心臓発作ね」
と呟いて、それでもやっと目指す病棟へ行きついた。
「ええと、〈305〉か」
と、部屋の番号を見て行くと、少し先のドアが開いて、背広姿の男が出て来た。
どこかで見たような、と思っている内、その男は、希代子の方へ歩いて来て、すれ違ったが……。
そうだ。専務の西山だった!
希代子も、もちろん何度か顔は見ているのだが、正社員ではないから、話したこともないし、そんな機会もない。
では、今西山が出て来たのは、細川幸子の病室だろうか?
考えていると、西山がふと足を止め、振り向いて希代子を見た。
「君……もしかして、篠原君か」
と、西山は言った。
「ええ、そうです」
「やっぱりか」
西山は、戻って来て、「見たところ編集者だな、と思ったんだ。それに社内で一、二度会ってるしな」
「はい」
「君 ——幸子を助けてくれたそうで、感謝してるよ」
西山は、あまり押し付けがましくない口調で言った。
「いいえ……」
と、希代子は首を振って、「何も特別なことは」
「いや、医者からも聞いた。全く、お礼の言いようもない」
西山はそう言ってから、少しためらって、
「君……少し時間はあるかね」
「私ですか。ええ……。十五分くらいでしたら」
十五分を、普通「時間がある」とは言わないかもしれない。西山はちょっと笑って、
「じゃ、十分ですませる。相談にのってほしいことがあるんだ」
と言った。
——二人は病院の喫茶室に行った。
「ひどいな、ここのコーヒーは」
と、西山は一口飲んでやめる。
「席料ですよ」
と、希代子は言った。「専務、お話って何でしょう」
「うん、幸子とのことは、君も知っているだろう」
「漠然とですが」
「倉田君も 可哀《かわい》そうだった。優秀な男なのにな」
西山は首を振った。「私がやめさせたわけじゃない。当人が辞表を出して来たんだ。本当だ」
「私には ——」
「関係ないか。それはそうだな」
西山はガタつく 椅《い》子《す》に座り直して、「実は、君に頼みがある」
「何でしょう」
「幸子のことだ。あれは君のことをずいぶん親切にしてくれたと言って、頼りにしている。あれが 田舎《いなか》へ帰るのを、送って行ってやってくれないか」
「は?」
希代子はびっくりした。「待って下さい。どういうことですか?」
「幸子は、退院したら故郷へ帰したい。これ以上東京にいては、本人のために良くない。しかし、本人は帰りたがっていないんだ。いや、説得はしたが、まだ気は進まない。君がついて、送って行ってやってほしい」
希代子は 呆《あき》れた。——どうしてそんなことまでしなきゃいけないの?
「専務 ——。私は何の関係もない部外者ですから」
「だからこそだ。幸子も、君なら安心してついて行くと思う。どうかね。もちろん別に礼はする」
腹立たしい気持が、うまく隠せたとは思わないが、ともかく口実はいくらもある。
「とても無理です。今、編集長が代って、中は大混乱です。私が何日か抜けたら、雑誌が出なくなりますよ」
少し大げさかとも思ったが、決して嘘ではない。
「そうか。 ——ま、確かにそうかもしれんな」
と、西山は難しい顔で肯いた。「分った。いや、引き止めて悪かった。倉田君の見舞だろ? 行ってくれ」
「失礼します」
希代子は、喫茶室を出た。
——西山の言葉。希代子はどことなく引っかかるものを感じていた。
なぜ、自分の愛人を故郷へ帰すのに、ろくに知ってもいない希代子に話そうと考えたのか。首をひねらないわけにはいかなかった。
ともかく、今は倉田の見舞に来ているのだ。
病室へ入ると、すぐに倉田のベッドが目に入った。そして、希代子はホッとすると同時に笑い出しそうになってしまったのである。
「 ——やあ、希代子か」
と、手を上げて見せる。
「やあ、じゃないわ。何してるんですか」
と、希代子はベッドのわきの椅子に座って言った。
「見りゃ分るだろ、本を読んでる」
「そりゃ分りますけどね」
と、呆れてしまう。
ベッドの両わきに、本が山積みになっている。わきだけではない。ベッドの上にも本や雑誌がいくつものっているのだ。
「お医者さんに 叱《しか》られますよ」
と、希代子は言った。「ここはね、編集部じゃないんですから」
「しかし、本に囲まれてないと、体の回復も遅くなるんだ」
「全く……。人に心配かけといて」
と、苦笑いする。
「おい、どうだ編集部の方は」
やはり気になっているのだろう。その気持は希代子にも分った。
久保田と相談して決めた役割分担を説明すると、倉田は少し考えていたが、
「うん、大体いいだろう」
と肯いた。「ただ、近藤はもう少し仕事を回しても大丈夫、あいつはよそで経験があるからな。グラビアは一人で任せても大丈夫やれる」
「分りました」
と、希代子は言った。
二人の間に、少し沈黙があった。
「 ——希代子。すまなかった」
「編集長」
そう、つい呼んでしまう。「私に謝ってもしょうがないわ。奥さんと、 彼女に」
「うん」
と、倉田は肯いた。「うん。 ——分ってるよ」
「もう……ふっ切れましたか」
倉田は、遠くを眺める目つきをした。
希代子は、倉田の中ではまだ整理がついたわけではないこと、この本の山も、何とかしてそこから脱出しようとする試みなのだと知った……。
「そのつもりだ」
と、倉田は言った。「女房には、すまないことをした。しかし ——あの子を愛したことは、後悔していない」
希代子は何も言わなかった。何を言えるだろう。自分自身、その身になってみないで、何が言ってやれようか。
「西山専務とそこで ——」
と、希代子が言うと、倉田は顔を向けて、
「会ったのか」
「ええ。でも何だか妙でしたよ」
西山の頼みごとを話してやると、倉田は少し複雑な表情になって、
「そうか……。まあ、西山さんも、あの人なりに心配してはいるんだ」
と言った。「それで、断ったのか」
「もちろん。こっちはそれどころじゃないわ」
「そうだな。しかし ——」
と言いかけて、口をつぐむ。
「何ですか」
「いや……」
「まあ、篠原さん」
と、声がした。
妻の雅代が、エプロンをして入って来た。
「どうも、お邪魔して。すぐ失礼します」
「いいえ、どうぞごゆっくり」
「そうしてもいられません。入稿が近いんで」
「そうだ。発売日は待っちゃくれんぞ」
と、倉田は言った。
希代子は笑って、
「ちっとも変りませんね、じゃ」
と手を振って病室を出る。
「 ——ちょっと」
と、雅代が追って出て来た。「篠原さん。本当にありがとう」
「そんな……。頭なんか下げないで下さい」
と、照れて、「奥さん、ともかくご主人に何か仕事を。老け込まないためには一番です」
「ありがとう」
と、雅代は言って、目頭を指先で 拭《ぬぐ》った。「ともかく——生きていてくれたのが嬉しいの」
「やり直せますよ、きっと」
「そうだといいけど……。ね、希代子さん、あの子にもやさしくして下さったそうね。お礼を言うわ」
「細川さん……ですか」
「まさか、主人の相手があの子だとは思わなくて。分ったときは目を疑ったわ」
と、雅代はため息をついた。「 ——あの子のことも見舞ってやって下さる?」
「ええ……いいんですか?」
「もちろん」
二人は一緒に歩いて行った。歩きながら、雅代は、
「妙な立場よね。夫と従妹。どっちも憎むわけにいかない」
と、 微笑《ほほえ》んだ。「でもね——幸子さんも、可哀そうな子なの。父親がいなくて」
「いなくて?」
「誰なのか、よく分らないのよ。田舎のことで、母親もあの子も、ずいぶん肩身の狭い思いをして暮して来たらしいわ」
「そうですか」
ふと、希代子は、二人でジュースを飲んだとき、幸子が言ったことを思い出した。
「私……二十七年間、待ってた」
と、幸子は言ったのだった。
あれはどういう意味だったのだろう。
「 ——じゃ、顔だけ見て帰ります」
と、希代子は病室のドアの前で雅代と別れた。
中へ入って、希代子はすぐに窓側のベッドに寝ている細川幸子を見付けた。
しかし、さっき見た倉田とは対照的な姿がそこにはあった。
ベッドのシーツは、しわ一つない感じで、患者がほとんど身動きしていないことが分る。
細川幸子は、窓の方へ頭を向けて、じっと外を眺めている様子だった。
希代子は、もしかして幸子が眠っていたら、と思い、そっと近付いた。
幸子がゆっくりと顔をめぐらし、
「あ……。篠原さん」
と、力のない声で言った。
少なくとも、表面的には元気一杯だった倉田と違って、ほんの何日かで幸子はやせて、青白い顔色になっていた。
「どう、具合?」
と、希代子はできるだけ屈託ない調子で語りかけた。
「色々……ご迷惑かけて」
と、幸子は言った。
「本当。これ以上はごめんよ」
と、明るく言って、「何かほしいもの、ある? いつになるか分んないけど。それより、きっと退院の方が早いわね」
「篠原さんには……ご親切にしていただいて……」
「やめて。何も特別なことはしてないわ」
「いえ……。もし ——甘えてよろしければ、もう一つ、お願いしたいことが」
「何かしら」
幸子は、 枕《まくら》の下に、手を入れると、封筒を取り出した。
それを希代子の方へ差し出すと、
「この封筒を……この住所の所へ届けてほしいんです」
封筒の中からメモを取り出す。
「送っちゃいけないの」
「ええ、できたら……届けていただけると」
幸子の口調は、ほとんど哀願に近いものがあった。
住所を見て、希代子は、
「へえ。私のよく行く写植屋さんの近くね。 ——明日でもいい?」
「もちろんです」
「じゃあ、届けてあげるわ」
「ありがとう!」
初めて、幸子の言葉に力が入った。
「じゃ、これは預かって ——」
希代子は封筒をバッグへ入れようとした。
「おっと」
封筒が落ちた。床に落ちた勢いで、中から写真が一枚滑り出した。
「ごめん。落としちゃった」
と、急いで拾って ——。
希代子はハッとした。その写真に写っているのは、二つか三つの赤ん坊だったのである。