早過ぎてしまった。
「 ——珍しいこと」
と、自分で自分をからかってみる。
編集者は、待ち合せとかの時刻に遅れることはめったにないが、逆に早すぎるということもない。
出なれていて、目的地までの時間が読めるということもあるが、むだに相手を待つほどの余裕がない、というのも本音だろう。
希代子も、その点ではベテランの名に恥じない。大体勘で行っても、プラスマイナス五分の範囲内で着くのだ。
その希代子が、今日ばかりは勘が狂った、と言うべきか。
「 ——あ、今日は」
と、声をかけられて振り向く。
「やあ、君か」
と、希代子は水浜邦法を見てホッとした。
N大の定期演奏会の会場。ホールとしては千人ほどのキャパシティ。まあほどほどというところだろう。
「 ——早いんですね」
ヴァイオリンのケースをさげた水浜は、言った。「これからリハーサルですよ」
「勘違いしちゃったみたい」
と、希代子は笑って言った。「いいわ。その辺で時間を 潰《つぶ》してるから」
「入って下さい。構いませんよ」
と、水浜は言った。
「でも、お邪魔でしょ」
「ちっとも」
と、水浜は肩をすくめて、「そんなご大そうなアーティストが出るわけじゃないですから」
「でも ——いいの?」
「はい。こっちへどうぞ。楽屋口から入りましょう」
「編集者にとっては魅力的な言葉ね」
と、希代子は微笑んで言った。「裏を 覗《のぞ》くのが、私たちの仕事ですからね」
「怖いな。 ——といって、記事になるほどのこと、ありませんけどね」
二人は、〈楽屋入口〉というドアから中へ入った。
折りたたみの椅子だの、楽器のケースだのが並んでいる狭苦しい通路を抜けて、階段を上って行くと、パッと目の前が開ける。
いつの間にやら、希代子はステージの 袖《そで》に立っているのだった。
「おはよう」
と、水浜が声をかけると、オーケストラのメンバーが口々に答える。
オーケストラの椅子は半分ほど埋っていた。まだみんなおしゃべりしている段階。
中で、特に 真面目《まじめ》なのが数人、譜面を見てさらっている。
「 ——水浜、連れは彼《ヽ》女《ヽ》か?」
と、誰かが声をかける。
「失礼だぞ。花の編集者だ」
と、水浜が答えた。
「へえ。取材?」
と、フルートの女の子が言った。
「そうじゃない。知り合いさ。 ——篠原さん、どうぞ適当に」
水浜はケースからヴァイオリンを出しながら、言った。
「ありがとう。気にしないで」
こういう立場には慣れている。希代子は、オケのメンバーに適当に話しかけたりもして、何となくこの場の雰囲気に溶け込んで行った。
徐々にメンバーも 揃《そろ》って来て、あと数人というところで、二十七、八の青年が分厚いスコアを手に現われた。指揮者である。
「揃ってないな。 ——誰だ?」
と、顔をしかめる。
「第二ヴァイオリンが二人と、クラリネットですね」
と、水浜が言った。
「またクラリネット? しょうがないな!」
と、舌打ちして、指揮者はスコアを広げた。
「始めるぞ。クラリネット抜きだ」
希代子は、ステージから下りると、客席の隅の目立たないところに席を占めた。
「第一楽章はこのテンポ。いいね?」
指揮棒が譜面台をコンコンと 叩《たた》く。
オーケストラが鳴り出す。 ——希代子はフッと胸をしめつけられるような気がして、思わず目を閉じた。
この曲……。メンデルスゾーンの「スコットランド」。
希代子は大学のとき、正にこの曲をやらされた。 ——本当に、この曲だった!
練習はしばしば中断し、指揮者の注意が入った。
聞いていて、希代子は指揮者の細かい注意が、 却《かえ》ってオケのメンバーを「のりにくく」しているという印象を受けた。もう少し全体を通してやった方が、分りやすいだろう。
四十分ほどやって、休憩になる。
「 ——どうです?」
水浜が客席に下りて来て、希代子に声をかけた。
希代子が感想を述べると、
「そうなんですよ」
と、水浜は 嬉《うれ》しそうに、「みんなそう言ってて……。でも、言うと怒るんです、あの人。プライド高くて」
「大変ね」
「コンマスなんて、憎まれ役。会社なら中間管理職だな」
適切な表現に、希代子は笑ってしまった。
「 ——水浜さん!」
と、飛びはねるように、奈保が入って来た。
「やあ、来たね」
「あ、希代子さん、ずるい! だめよ、水浜さんに手を出しちゃ」
「何よ、そのいい方」
と、苦笑して、「早く着いちゃったから、入れてもらったのよ」
しかし、奈保は希代子の言うことなど聞いていない。
「ね、ステージの上に上ってもいい?」
と、水浜の腕にぶら下がらんばかり。
「ああ。でも、練習始まったら、おとなしくしてろよ。指揮者に怒鳴られるぞ」
「はいはい。お人形さんのようにじっとしてるわ」
二人は通路をステージの方へ歩いて行く。
希代子は、席を立って、ロビーへと出て行った。
外はもちろん明るい。 ——午後のコンサートだ。どれくらいの客が入るものやら、見当もつかない。
希代子は、ロビーのソファに腰をおろして息をついた。ガラスばりの正面には、何人か集まって来ている学生たちの姿が見える。
客のほとんどは、同じN大の学生たちだろう。中にはオケのメンバーのガールフレンドらしい女の子たちもチラホラ見えて……。
希代子は、ふと、その若者たちの間に混って見えている男に目を止めて……。
「まさか」
と、呟く。
しかし ——間違えようもない。あれは白石だ。
向うも、希代子と目が合って、入口の方へやって来る。希代子はちょっとためらったものの、ここから逃げ出すわけにもいかず、仕方なく白石の入って来るのを見ていた。
「 ——やあ」
休みの日で、ラフなセーター姿の白石は、却って老けて見えた。
「どうしてここへ?」
と、希代子は訊いた。
「会いに来ちゃいけないか」
白石は、ロビーのソファに座った。
「まさか……。私を 尾《つ》けて来たの?」
「まあな。このところ、何度か尾け回してたんだ」
白石は笑って、「気が付かなかったか? 俺《おれ》の腕もまんざらじゃないな」
「やめてよ。 ——もう別れたじゃないの」
と、目をそらす。
「君がそう言ってるだけだ」
「いいえ」
と、希代子は白石を見て、「客観的に見ても同じよ。あなたは、もう、私と何の関係もない人」
「そうかな」
と、白石は言った。「一時は一緒に暮したじゃないか」
「ほんの数日でしょ。 ——それに何よ、今さら。あのとき、私を捨てておいて」
希代子の言葉はともかく、口調は穏やかで、今日のお天気のことでも話しているみたいだった。
「あの場合は仕方なかった」
「勝手ね」
と、希代子は笑って、「ともかく、もう私はあなたを卒業したのよ」
「俺は君を手放した覚えはない」
白石の目は真剣だった。
「 ——お願い。帰って」
いつ、奈保が出てくるか、気が気じゃなかった。
「ゆっくり会いたいんだ」
「むだよ」
「話してみるだけならいいだろう」
「もうやめて。尾け回すのも、しつこくするのも」
希代子は立ち上った。「あなたが出て行かないのなら、私が行く」
希代子の視線に、何の妥協も許さない「拒否」を見た白石は、ちょっと顔をひきつらせた。
「希代子……。女房は死んだ」
希代子は、一瞬、 愕《がく》然《ぜん》とした。
「亡くなったって……。いつ?」
「二年になる」
「そんなに?」
胸をふさがれる気がした。「どうして?」
「胃をやられて。ガンだった」
と、白石は言った。「アッという間にやせてね」
「そう……。お気の毒だったわ」
「君のことを気にしてた。 ——俺が悪いってことは、あれにも分ってたんだ」
白石は、暗い情熱をたたえた目で、希代子を眺めていた。
「それならなおのこと……。もう私とのことは消し去るべきだわ」
と、希代子は言って、「失礼するわ」
ホールの中へ入りかけ、
「もう、現われないで」
と一度念を押した。
中へ入ると、また練習が始まっていた。
コンサートマスターの席で、水浜は汗を拭っていた……。
拍手がホールを埋めた。
客席も八割は埋り、希代子もホッとした。
大学のオーケストラのコンサートなど、ガラガラなのも珍しくない。
希代子は、これだけ客が入っているので、自分のことのようにホッとしたのである。もっとも、並んで座っている奈保にとっては客の入りなど、どうでもいいようで、ただひたすら水浜を見ていれば、それでいい、というわけだった。
「 ——上手だった?」
と、ホールを出ながら、奈保は言った。「私、ちっとも分んないけど」
「どうせ、曲なんか聞いちゃいないんでしょ?」
と、希代子は冷やかして、ついロビーに白石がいないか、探していた。
どこにもそれらしい姿はない。希代子はホッとした。
「楽屋へ行くの」
と、奈保は言った。「希代子さんも行こうよ」
「私はいいわ。奈保ちゃん、送ってもらうんでしょ?」
「でも、希代子さんがついて来ないと、途中で寄り道するかもしれない」
「もう! 人をからかって」
と笑って、それでも結局はついて行くことになる。
楽屋では、もうどんどん着がえをすませたメンバーが帰り始めていた。
「 ——水浜さん!」
奈保が、もう普段の服になった水浜を見付けて引張ってくる。
「お疲れさま」
と、希代子は言った。
「いえ、どうも……。どうでしたか」
「私の入ってた大学のオケよりは 遥《はる》かに上」
と、希代子は言った。「もっとも、うちの大学よりひどい所って、そうないみたいだったけど」
「裏から出ましょう。 旨《うま》いラーメン屋があるんだ」
と、水浜と一緒に、さっき入って来た楽屋口から外へ。
さすがに、もう暗い。
「一緒にいてもいいの?」
と、希代子は言った。
「ええ。ラーメン、好きですか?」
「もちろん」
と肯いて、歩き出し、希代子はそこに白石が立っているのを見て、思わず息をのみ、足を止めていたのだった。