立ちすくんでいる希代子に気付かず、奈保と水浜は何やら笑いながら歩いて行ったが ——。
水浜の方が気付いて、足を止めると、
「どうかしたんですか?」
と、振り向いて言った。
「希代子さん? 何してるの」
と、奈保も声をかけて来た。
「先に行って」
と、希代子は言った。「いえ、もう私、ここで帰るから」
「でも ——」
と、奈保が当惑している。
白石は、少し薄暗がりになった所に立って、希代子の方をじっと見つめていた。
「水浜君、悪いけど奈保ちゃんをお願い」
と、希代子は早口で言った。「私、ちょっと用があるの」
白石が希代子の方へ進み出て来た。
「希代子 ——」
「ここでは話なんかできないわ」
「うん。じゃ、どこかへ行こう」
白石はホッとした様子で、「二人になれる所に」
白石の言葉を、もちろん奈保たちも聞いている。大人の男と女が「二人きりになれる所」に行くと言ったら、どう思うか。希代子は 苛《いら》立《だ》って、
「話すことなんかないって言うためよ。間違えないで」
と急いで言った。
「何でもいい。ともかく行こう」
白石が腕を取ろうとするのを、希代子は振り払った。
「やめて。図に乗らないで」
と、厳しい口調で言ってやる。
白石の顔が険しくなった。明りの届く場所にいて、その白石の表情はかつて希代子が付合っていたころには見せたことのないものだった。
「希代子。 俺《おれ》にそんな口をきくのか」
白石の顔は引きつっていた。「昔のことを忘れたっていうのか。俺たちが ——」
「やめて!」
と、希代子は遮った。「聞きたくないわ。やめて下さい」
奈保と水浜がじっとこっちを見ている。希代子は、あの二人の目に自分と白石はどう映っているだろう、と思った。
「ともかく来い。一晩中ゆっくりかけて話したいことがあるんだ」
命令口調は、わがままだった以前のそれと同じだ。しかし、かつてはどこかのんびりとした「坊っちゃん」くささがあって、苦笑いして許せるところがあったのだが、今の白石はややヒステリックに自分を守ろうとする意識だけが感じられた。
しかし、これ以上奈保たちの前で白石とやり合いたくはなかった。ともかく、二人と別れて、それから考えよう。
希代子が口を開きかけたときだった。
「篠原さん」
と、水浜が明るい口調で声をかけて来たのだ。「先約ですよ」
「え?」
「僕らに付合ってくれる、って先約が入ってるんですよ」
水浜は白石の方へ向くと、「すみませんけど、この次にして下さい。篠原さんはこれから僕らと出かけることになってるんです」
と、さりげなく言ってのけた。
「子供にゃ関係ないんだ。あっちに行ってろ!」
「そうはいきませんね」
水浜は、ごく当り前の口調で続けた。
「何だと?」
「篠原さんは、あなたと行くより僕らと一緒の方が楽しいんですよ。お引き取り願えませんか」
希代子も、 呆《あつ》気《け》に取られていた。奈保が少し離れて不安げに水浜を見ている。そして、チラッと希代子へ目を向けて来た。
ハッと我に返って、「いけない」と思った。白石は、かつての白石ではなくなっている。「危険な男」なのだ。
「水浜君 ——」
と、口を挟んだときだった。
突然、白石が 拳《こぶし》を固めて、水浜の顔を殴りつけた。希代子は思わず声を上げた。水浜は素早く上体をそらしたが、完全にはよけ切れず、顎《あご》の片側辺りを殴られて、よろけた。
「何するの!」
希代子が白石の前に飛び出して、「気でも違ったの? 警察を呼ぶわよ!」
ほとんど無意識に、そう叫んでいた。
「篠原さん、危いですよ」
と、水浜が希代子を押しのける。「僕なら大丈夫」
「とんでもない! あなたには関係ないことなのよ」
希代子は、じっと白石をにらんで、「帰って。 ——二度と姿を見せないで」
と言った。
白石は、暗く燃えるものを目の底に感じさせながら、それでも声を上げて笑った。
「 ——悪かった。いや、俺もついむきになったよ」
と、後ずさりするように希代子から離れて、
「そうだな。 ——子供を相手に本気になってもしょうがないもんな。そうだろ? お前のことなら、俺が一番よく知ってるんだ。俺はお前の最初の男なんだからな」
希代子は顔が燃えるように熱くなるのを覚えた。
「なあ、希代子。 憶《おぼ》えとけよ。お前の隅から隅まで、俺は知ってるんだ。分ってるだろうな」
白石はもう一度笑うと、「じゃあ……。またな、希代子」
と、手を振って、フラッと酔ってでもいるように、歩いて行った。
白石の後ろ姿はじきに暗がりの中へ消えたが、希代子の目にはいつまでも暗い影となってチラついて見えた。
「 ——希代子さん」
いつの間にか、奈保がそばに来ている。
「奈保ちゃん。水浜君のこと、見てあげなさい。 ——けが、してない?」
「大丈夫ですよ、あんなの」
と、水浜は軽く顎をさすって、「こう見えても、丈夫にできてるんです」
「奈保ちゃん、水浜君と一緒に行って。ごめんなさいね、とんだ巻き添えで」
と、希代子が言うと、
「だめですよ」
と、水浜が言った。「篠原さんも来なくちゃ」
「そうよ。希代子さんも一緒に。ね?」
「だけど ——」
「あんな男のために、 旨《うま》いラーメン食べそこなうなんて、間違ってますよ」
水浜の言い方に、希代子はちょっと面食らい、そして笑い出してしまった。
「それは正しいかな」
と、希代子は首を振って、「おいしいラーメンは、いい男と同じくらい珍しい」
「そうですよ。しかも、高くない」
「分ったわ」
希代子は奈保の肩を軽く抱いて、「じゃ、私のおごり。それでいいわね」
「じゃ、遠慮なく」
水浜が 嬉《うれ》しそうに言った。「二杯食べようかな」
「大丈夫よ。希代子さん、お金持だもん」
と、奈保が笑って言った。
希代子は、水浜が心配してくれているのだと察していた。白石が、まだどこかで待っているかもしれない。希代子を一人で帰したくないのである。
二十一歳の大学生にそんな風に気をつかわれるのは少々気がひけたが、不思議とそういうことが さ《ヽ》ま《ヽ》になるのが水浜の変ったところなのかもしれなかった。
——結局、ラーメンに付合い、希代子も二杯食べてしまうはめになったのである……。
マンションへ入るとき、希代子はつい辺りを見回していた。
もちろん、白石がいるかもしれない、と思ったのである。しかし、それらしい人影は見えなかった。
——部屋へ入って、きちんとドアをロックし、やっと安心する。
それにしても……。
一人になって落ちつくと、希代子は 却《かえ》って重苦しい気持になるのを避けられなかった。——それは、一つには白石がいつ現われるかもしれないという不安、それから逃れられないという辛《つら》さでもあり、また白石その人の変りようへの失望でもあった。
「元気出して!」
と、希代子は声に出して言った。
そうだ。仕事もある。月曜日までに片付けようとして持ち帰った仕事があるのだ。
頑張らなくては。「仕事は休まない」のである。
お風呂にお湯を入れながら、希代子は何かのメロディを口ずさんでいた。
「何だっけ、これ?」
しばらくメロディを続けてみた。やっと気が付いた。今日、水浜たちの演奏したメンデルスゾーンの「スコットランド・シンフォニー」の一部だ。
でも ——不思議な子だわ、あの水浜って子。
妙に大人のようで、それでいて奈保ともちゃんと話を合せていられる。どこか覚めていて、それでいて単純明快でもある。
「二十一か……」
と、希代子は 呟《つぶや》いた。
「あと、三つ四つ年が行ってればね。 ——惜しかった!」
と呟いて、自分で笑ってしまう。
風呂に入って、ゆったりとお湯に浸り、大分気分も軽くなった。
白石のことはもう忘れよう。そう決めたのだ。それを、いつまでもくよくよしていては仕方ない。
今日、白石が現われて動揺したのは、奈保たちに自分の過去を知られるのが辛かったせいだ。それはよく分っていた。
でも、ラーメンを食べながら、白石のことなどちっとも話に出なかったし、あの二人の、希代子を見る目も変りはしなかった。
考えてみれば、水浜も奈保も小さな子供ではない。人間、二十八にもなれば、「過去」の一つや二つ、背負っていて当り前だということ ——生きる、ということが、少しは分っている年齢である。
でも、ありがたかった、あの水浜の気のつかい方が。
奈保が夢中になるのも当り前かもしれない。水浜は、もっと年上の男性のように、奈保と接している。
奈保は水浜に夢中だが、水浜の方は必ずしも「恋」を意識しているわけではないように見える。もちろん、恋というのは、たいていそんなもので、双方が一緒に熱くなるわけではない。
それでも、希代子はちょっぴり奈保のことを 羨《うらや》ましいと思った。
湯上りで、バスローブをはおって息をつきながら、
「あら、ファックス」
何か入っている。 ——取り上げてみて、目を見開いた。水浜からだったのである。
〈篠原希代子様
今日は「定演」を聞きに来て下さって、ありがとうございました。
おまけにラーメンまでおごっていただいて。 図《ずう》々《ずう》しく甘えてしまいました。
奈保さんはちゃんとご自宅へ送り届けましたので、ご安心下さい。そちらは大丈夫でしたか? 心配になったので、ファックスを入れてみました。
僕のような子供が余計な口を出して、気を悪くされていないといいのですが。
僕の父はヴァイオリン奏者でしたが、僕が中学生のころ、家を出てしまって、今もどこにいるのか分りません。
今日の男の人を見て、何だか父とよく似ているので、つい黙っていられなくなってしまったのです。
でも、希代子さんにとっては、まだ忘れられない人なのでしょうか。
これも余計なことでした。
ではいずれまた。
水浜邦法〉
希代子はくり返し、そのファックスを読んだ。
胸が熱くなる。 ——水浜の「身上話」のせいではない。もちろんそれもないではなかったが……。
むしろ、希代子の心を打ったのは、〈希代子さん〉と呼んでくれたことだった。
「キザな子」
と、照れて一人で呟くと、そのファックスをていねいにたたんで、机の引出しへしまう。
すると、電話がルルル、と鳴って、ファックス受信の信号音がピーッと聞こえた。
仕事かな。土曜日だっていうのに。
カタカタと音をたててファックスが出てくる。 ——短いファックスだった。
〈おやすみなさい 水浜〉
希代子は、しばし、そのファックスを手に、立ちすくんでいた。
心が騒いだ。 ——これは、何だろう?
水浜が、なぜわざわざこんな言葉を……。
いや、とり立てて特別な意味はないのだ。ただ、ちょっと思い付いただけなのだ。
しかし、希代子はその短いファックスを、同じ引出しにしまって、
「おやすみ」
と、呟いたのだった……。