「もう少し待って、ね? ——分ってるけど、こっちも人手がないのよ、何とか引張ってよ。お願い!」
毎日毎日、何度こんなセリフをやりとりしていることだろう。
言う側に立つこともあれば、言われる側に立つこともある。言う方としては、向うが 呑《の》んでくれなくては困るし、言われる側としては、「そこを何とか」と、もう一押しする。
矛盾しているようでも、これが仕事というものである。
週があけて、〈C〉は次号の校了とその次の号の入稿の時期に入った。希代子はもちろん、スタッフはほとんど連日、午前二時三時まで働いている。
編集長の久保田も「慣れていない」なんて言っていられなくなり、顔を真赤にして動き回っていた。
希代子は判断に困ると、時々こっそり病院へ電話を入れて、倉田の指示を聞いたりした。
久保田には悪いが、いちいち事情を説明していられない場合だってあるのである。
「 ——チーフ、夜食は?」
と、太田和也が声をかけて来たのは、夜中十二時を回った辺り。
久保田に頼まれて全体をまとめるようになって、ごく自然に「チーフ」という名で希代子は呼ばれることが多くなっている。
「何のチーフ? ハンカ チーフ?」
などとふざけたりしながら、希代子も別にいやがってはいない。
「夜食? ——今夜はパス」
と、希代子は手を振って、「カズちゃん、頼んでいいわよ」
「あれ。お 腹《なか》、もつんですか」
「少し我慢しなきゃ。こう毎晩食べてたら太って困るわ」
写真選びを 一《いつ》旦《たん》休んで、電話へ手を伸ばす。コラム原稿をライターに催促しなくてはならない。
「それじゃあ、僕、頼みますよ」
と、太田が言って、行きかける。
「カズちゃん! 待って! 私もやっぱり食べる」
マンションに、ほとんど食べるものが置いていなかったことを思い出したのである。
「はい」
と、太田が笑って 肯《うなず》いた。
——こういう徹夜仕事が続くと、食事が息ぬきになる。てきめんに太ってしまうのだ。
入社一年で六キロも太った、と嘆いている女の子もいる。ぎりぎりの限界までくたびれ果てているというのに、よく太れるもんだ、と誰もが首をかしげるのである。
「 ——もしもし。〈C〉編集部の篠原ですが、原稿の方、どうですか」
例の藤村涼から交替したライターのオフィスである。
希代子は 苛《いら》々《いら》していた。藤村のことは別としても、どうも要領を得ない。
「チーフ、電話です」
太田がわざわざそばへ来て、小声で言った。
白石かと思った。送話口を手で押え、
「誰?」
「編集長です。 元、編集長」
「つないで。 ——また、後で連絡入れます」
ポンと切って、外からの電話をつなぐ。
「 ——もしもし」
「希代子か」
と、倉田の声が聞こえた。
「病院ですか? どうしたんです」
「希代子、すまんが……」
と、倉田が口ごもる。
「どうかしました?」
「彼女が ——幸子がいなくなった」
「いなくなった、って……」
「病院から出て行ってしまったらしい。看護婦さんが今捜し回ってる。 ——自殺の怖《おそ》れがあるというんだ」
「そんな!」
希代子は 愕《がく》然《ぜん》とした。
「すまん、希代子。行ってみてもらいたいところがある」
「それは ——」
と言いかけて、「あそこ? 写植屋さんのそばの」
と、思い付いて言った。
「知ってるのか」
「この間手紙を頼まれて。どういう人なんですか」
「会ったか」
「いえ。ポストへ入れて来ただけです」
「そうか……」
「ともかく今は……。校了のゲラ、見ないといけないし」
「俺がそっちへ行ってもいい。すまんが、行ってくれ」
そこまで言われては、希代子も断れない。
「分りました。編集長は来なくていいですよ」
と言ってしまってから、チラッと久保田の方を見る。
大丈夫。何か仕事の電話で夢中になって話している。
「いいですね。おとなしく入院してなきゃだめですよ」
「分った分った。そうおっかない声を出すな」
「もともとこういう声です」
と、希代子は言ってやった。
電話を切って、
「カズちゃん、ちょっと出てくる。悪いけど、この写真、見といて」
「はい」
と、太田が肯く。「何かあったんですか」
「あったかもしれないし、なかったかもしれない」
と、もう手早く出かける用意。
もちろん机の上を片付けるわけにはいかない。何時になるとしても、戻って続きをやらなくてはならないのだ。
「 ——じゃ、よろしく」
と、希代子は駆け出して行く。
「おい! どこへ行くんだ」
久保田の声が追いかけて来たが、希代子は答えなかった。
タクシーを拾おう。
会社を出た希代子は、車の来るのを待とうと思った。ところが ——。
「雨?」
昼過ぎから曇って来てはいたが、ビルを出て、パタパタと肩を打つ感覚があった。
「参ったな……」
タクシーも、晴れた夜は楽に拾えるが、こんな風に夜になって降り出したとなると、いくら不景気な時期とはいえ、たちまち空車はなくなってしまうだろう。
一旦編集部へ戻って、無線タクシーを呼ぼうか、と考えていると、タクシーではない普通の車が希代子のわきへスッと寄って来て 停《と》まった。
「失礼ですが ——」
どこかで聞いた声だ、と思って目をやった希代子は、目を疑った。
「水浜君じゃないの!」
確かに水浜が車の窓から、希代子のことを眺めているのである。
「やっぱり。何だか後ろ姿が似てると思ったんです」
「でも ——どうしてこんな所にいるの?」
そう 訊《き》いているうちに、雨は勢いよく降りだした。水浜はパッとドアを開けて、
「早く! 乗って下さい」
迷っている余裕はなかった。希代子は、慌てて車に乗り込んだのだった。
「この間は、ありがとう」
と、ハンカチで 濡《ぬ》れた髪を拭《ぬぐ》いながら希代子は言った。
「え?」
「この間のファックス」
忘れているのだろうか。もちろんそうかもしれない。水浜の「彼女」は奈保で、希代子ではないのだ。
「ああ、いや ——後でちょっと後悔しました。後で後悔した、っておかしいかな、言い方が」
「後悔? どうして?」
「あんなことでファックスなんか使って。お仕事の邪魔になりませんでしたか」
「いいえ、ちっとも」
と言って、「嬉しかったわ、本当よ」
「良かった」
水浜はニッコリと笑った。
「 ——悪いわね、こんな時間に」
と、希代子は言った。「この雨じゃ、タクシーが拾えそうもないし」
本当に、かなりの雨である。
「いや、ちょうど通りかかったんですから。お役に立って良かったですよ」
と、水浜の方は結構深夜のドライブを面白がっている様子。
「でも、本当にいいの?」
「もちろんです。忙しければ、僕もちゃんとそう言います」
「ならいいけど……」
あの細川幸子から預かった手紙を届けた住所を、水浜がドライブマップで捜しているのである。
「こう見えても勘はいいんです」
と、水浜は、自慢した。「任せて下さい。見付けて見せます」
「ありがとう。ともかく一度行っているから、近くへ行けば分ると思うわ」
窓の外へ目をやりながら、言った。
車は、夜の町を駆け抜けて行った。 ——長い長いトンネルのようだ。
「 ——何かあったんですね」
と、水浜は言った。
「うん……。奈保ちゃんから聞かなかった? 編集長の事件」
「女の人と一緒に死のうとした……」
「そう。その人のことで」
——希代子は、いきさつを水浜に話して聞かせた。別に訊かれたわけでもないのだが、話さずにはいられなかったのである。
それに、奈保から聞いた話は相当に不正確だろう。水浜には、倉田のことを、きちんと分っておいてほしい、と ——どうしてかは分らないが——希代子はそう思ったのである。
「その女の人、どこへ行ったんでしょうね?」
と、水浜は言ってから、「これから行く所に?」
チラッと希代子を見る。
「さあ……。いてくれるといいんだけど」
「死のうとしてるんでしょ」
「そこまでは分らないけど ——。ただ、あの赤ん坊の写真が気になってるの」
そうだ。それに、専務の西山が、希代子に細川幸子のことを頼もうとしたのもどこか妙だ。
たぶん、この裏にはもっと何か入り組んだものがあるのだ。
希代子はそう思いながら、窓に当る雨の粒がゆっくりと後方へ滑って行くのを、眺めていた。
「 嘘《うそ》はつかない方がいいですね」
と、水浜が言った。「偶然通りかかったわけじゃありません。たまたま近くで友だちと会ってたのは本当ですが、篠原さんのお勤め先はこの辺だと思ったんで、捜してたんです。そうしたら、急に姿が見えて……」
希代子は、水浜の横顔を見た。
しかし、何も言わなかった。言ったところで何になるだろう。
水浜は奈保の「彼氏」なのだ。それにまだ二十一。希代子が本気でその存在を考えるには、あまりに若い。
「どんな所で仕事をしてらっしゃるのかな、と思って……。好奇心が 旺《おう》盛《せい》なんですよ、僕って」
「結構なことだわ」
と、希代子は言った。「編集者に向いてるかもしれないわね」
水浜がちょっと笑った。
自分のことについては、それ以上何も話さなかった……。
「 ——この辺です」
と、水浜は言って、車のスピードを落とした。
「この辺ね……。たぶんそうだわ」
希代子は窓の外の風景に目をこらした。
昼と夜では、町の顔は全く違う。しかし、確かに部分部分に見憶えのある目印を見付けることができた。
「停めて!」
と、希代子は言った。「 ——少しバックしてくれる?」
車がバックすると、希代子はドアを開けて外へ出た。雨はこの辺りではもう上っていた。
「これだわ。でも……」
希代子は、その古い造りのアパートの前に立って、呟いた。
これが、あの手紙を届けたアパートである。それは間違いないが、この間来たときには、その看板は目に付かなかった。
そこには〈編集プロダクション〉という消えかかった文字があり、その名前は、正に今しがた希代子がコラムの原稿を催促していたライターのオフィスそのものだったのである。