「勝手を言ってごめんなさい」
と、希代子は言った。
「君が謝ることはないじゃないか」
と、藤村が、コーヒーをゆっくりと飲む。
「そうはいかないわ。私は〈C〉の編集部を代表してあなたの所に来ているんだもの。私自身の指示でないにしろ、謝るのは私の仕事」
「希代子さんは律儀ね、相変らず」
と、藤村の妻、 百《ゆ》合《り》子《こ》が紅茶をいれてくれる。
二十歳という若さだが、もう二歳の子供もあるせいか、二十四歳くらいには見える。といっても、「若々しさ」は隠しようもない。
「全く、損な性分だな」
と、藤村は笑って言った。
「それより……。どうかしら? 無理は承知なの。新しい編集長に言って、原稿料も上げさせるわ」
と、希代子は確約した。
もちろん、久保田の承認を受けての話ではない。しかし、承知させる自信はあった。
「何しろ今日頼んで明日まで、って話ですもの」
と、希代子は言った。「見っともなくて、よそじゃ話せないわ」
藤村は、別に気を悪くしている様子もなく、
「毎回それじゃ困るけど、今度は特別だものな」
と言った。
「じゃ、やってくれる? ありがとう!」
と、頭を下げる。
「あら、長いお付合いですもの。ねえ、あなた」
と、百合子が言った。「もう書いてあるんじゃなかったの?」
「え?」
と、希代子が目を丸くしていると、
「おい、黙ってないと、高く売れないじゃないか」
と、藤村は、魔法のように封筒をテーブルの上に置いて見せた。「中に入ってる」
「藤村さん……。じゃ、電話入れて、ここへ私が来るまでの間に?」
「元から書くつもりでいたから、題材はあったんだ。そう感謝されるほどのことはないよ」
藤村は少年のように照れている。
希代子は、
「ありがとう! もう二度とコラムは打ち切らせないわ、あなたがライターを続けてる限りは。信じて」
と、強い口調で言った。
「分った。君のことは信じてるよ」
君のことは、と言ったのは、希代子くらいではどうしようもない「上の決定」というものがあると、藤村もよく分っているからであろう。
「 ——じゃ、その女の方、見付からずじまいなの?」
と、百合子が訊く。
「ええ。今のところ。心配は心配だけど、仕事しなきゃいけないし」
「倉田さん、辛いだろうね」
と、藤村が言った。
もちろん、ライターとして倉田のことも良く知っている。
「ともかくありがとう」
と、希代子は立ち上った。「すぐ入稿するわ。このまま印刷所へ回るから」
「ああ、それじゃ、ゲラが出たらファックスしてくれ」
「見てもらう時間は……二、三時間ね、せいぜい」
「それでも一応目を通したい」
「分ったわ。何とかする」
小さなコラムでも、自分の書いたものに対しては責任がある。藤村のようなライターは、しかし、現実には少ない。
「じゃ、これで」
希代子は、藤村の家を辞した。
やがて薄暗くなってくる。あの大騒ぎから、丸一日もたっていないとは、信じられないようだ。
印刷所までタクシーを飛ばし、その車の中で指定の赤字を入れる。 ——ともかく、ベテラン編集長の抜けた今の〈C〉編集部で、一つのコラムでも、「思ったより早く入稿できた」意味は大きい。
印刷所へ寄って、入稿をすませると、編集部へ電話した。
「あ、チーフ、ご苦労様です」
と、太田が出る。「どうでした、藤村さん?」
「もう入稿した」
「え? 凄《すご》いな、それ!」
と、太田が、仰天している。「藤村さん、チーフのこと好きなんですよ、きっと」
「こら、余計なこと言わなくていい。何か伝言は?」
「今は何も」
「じゃ、悪いけどマンションに帰って少し寝るわ。夜中に出るから」
「はい。じゃ、緊急のとき以外、電話しません」
「頼むわよ」
昨日から一睡もしていない。さすがに頭痛がした。
タクシーを拾って、マンションへ向おうと思ったが ——。気が変った。
希代子は、津山家に立ち寄ることにしたのである。
奈保の家庭教師も、このところそれどころではなく、休んでいるし、水浜のこともあるし……。
タクシーの中の自動車電話で、
「これから行く」
と津山家に連絡した希代子は、道を運転手に説明した後、フッと目を閉じると、そのまま、ぐっすり眠ってしまい、運転手を少々心配させたのだった……。
「救急車呼ぼうと思ったんだって!」
と、希代子は笑って言った。「あんまり良く眠れるのも考えもんね」
「じゃ、コーヒーで目を覚まして」
と、津山静子が笑ってカップを置いた。「ブラックでね」
「そうするわ。 ——叔母さん。叔父さんは?」
「明日帰るの。札幌へ飛んでるわ」
と、静子は言った。
「奈保ちゃん、どうこのごろ?」
「ええ、明るくなって、元気だし……」
と、静子は言ってから、「でも……心配もあるわ」
と、少し上目づかいに希代子を見る。
「男の子のこと?」
「ええ。近ごろ年中電話で話しているし、うちも理解のある方だと思うんだけど……」
「希代子さん!」
と、居間へ奈保が入って来た。
「やあ。しっかり勉強してる?」
「うん。もちろん」
「その割に、どうして間違いがふえているんだ?」
と、希代子は言ってやった。
「ね、お母さん。今から彼が来るの。会うぐらいだったらいいでしょう?」
「彼って……」
と、静子が面食らって、「あの人?」
「うん。大丈夫。ちゃんと夕ご飯は食べてくるって」
「そんなこと言って……」
と、静子が言いかけると、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、来た」
と、奈保が、いそいそと出て行った。
「希代子ちゃん……」
静子の情ない顔に、希代子はふき出しそうになった。
「叔母さん、大丈夫よ。私が目を光らせてるわ」
「お願いね」
と、渋い顔の静子は、ため息をつく。
希代子が居間を出ると、水浜がヴァイオリンケースを手にして上って来たところ。
「あ ——」
と、希代子を見て、「どうも……」
と、目を伏せるだけの 挨《あい》拶《さつ》をする。
「どうも」
希代子は、同じ言葉で返した。
「二階に来て」
と、奈保が促して階段を上って行く。「希代子さんもどう?」
「仕事が山ほど残ってる」
と、希代子が答えた。「それに少し寝るの」
「じゃ、また」
奈保がトントンと階段を上って行く。
水浜は、階段に一段、足をかけて振り向き、
「昨日のことは ——奈保ちゃんには黙っていた方が」
と言った。
「黙って? なぜ?」
「 やかれますよ。奈保ちゃんに引っかかれたりしたら大変だ」
と笑って、上りかける。
「水浜君」
と、つい呼びかけていた。
「はい?」
途中まで上って、足を止め、振り向く。
「あの ——とても助かったわ。いつかお礼に食事でも、と思っているんだけど」
こんなことを言うつもりではなかった。
いや、そもそも何か言おうという気もなく、つい名前が出てしまったのであろう。
「ありがとう。 ——光栄です」
「よしてよ。 平《ひら》の編集部員の月給で出せる所って限られてる。期待しないで」
「でも、楽しみですよ」
水浜の声が小さくなる。「奈保ちゃんには言いません」
「 ——そうね」
静子は送りには出ないで、玄関の手前 ——本当はそれで充分なのだが——で、希代子を見送った。
玄関を出た希代子は胸苦しいほどのときめきを覚えていた。
表の通りへ出ると、タクシーが来てちょうど目と鼻の先に停った。
「やあ」
札幌にいるはずの津山隆一が、窓から顔を出していた。「どうだい、一杯飲みに行かないか」
もちろん希代子としては気が進まない。しかし、叔父から、何か白石のことを訊き出せるかもしれないと思った。
「じゃ、一杯だけね」
と、希代子は肯いて、そのタクシーに乗り込んだ。