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「みにくいあひるの子」だった私52

时间: 2019-09-23    进入日语论坛
核心提示:シャネルの生き方「働こうと働くまいと、おまえの勝手だ。好きにすればいい。だけど、いくら仕事がないからといっても、もうお金
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シャネルの生き方

「働こうと働くまいと、おまえの勝手だ。好きにすればいい。だけど、いくら仕事がないからといっても、もうお金はやらない。この家に住むことはいい。そのかわり、自分の生活費として、毎月きちんとお金を入れなさい」
私が二十歳(は た ち)になったとき、父はピタリとお小遣(こづか)いをくれなくなった。家に生活費を入れろとも言う。
でも、事務所と契約(けいやく)、つまり、就職(しゆうしよく)もしたことだし、住むところはまだとしても、自活するのは当たり前のことだと、私もその意見には賛成(さんせい)した。
私がモデルの仕事をはじめたのは、とにかく洋服をたくさん着たかったから。とくにシャネルの洋服が着たかった。
親からもらうお小遣いは、ほとんど食べ物に消えていた。学生のアルバイト程度では、私がほしかったシャネルの服やバッグには、とうてい手が届(とど)かない。本当は、ごはんなんか食べなくてもいいから、シャネルがほしかったのに。食べ物をがまんしても、結局は買えないから、食べるのはやめなかったけど。
中学・高校時代からシャネルの服が着たくて、ショッピングのとき、母に、「ママ、これ買って」とよくせがんだけど、
「あなたにはまだ早い」
と、買ってはもらえなかった。
おしゃれに関しては、幼稚園に入る前から母の影響(えいきよう)が大きかった。中学から高校のころには、母がもっているシャネルやエルメスのバッグのエレガンスに憧(あこが)れていた。
母はそれらをとても大事に使っていたから、貸してとも頼(たの)めない。高校生のころ、両親の海外旅行のお土産(みやげ)にエルメスのスカーフをもらったときには、すごくうれしかった。
モデルをはじめてからも、事情はあまり変わらなかった。『JJ』のモデルといっても、最初はせいぜい一、二カットかそこら。スタートから、なにもかも順調だったわけではない。いろいろな経費を引かれ、源泉徴収(げんせんちようしゆう)されて、手取り額はさらに減ってしまう。それだけでは、とてもやってはいけない。歩合給(ぶあいきゆう)だから、仕事がなければ収入もない。シャネルが買えるわけがない。
自分のお金で初めてシャネルのスーツを買ったのは、リサイクル・ショップだった。たしか二十万円くらい。
私がシャネル・ブランドが好きなのは、一つには従来の習慣(しゆうかん)にはとらわれない柔軟(じゆうなん)な発想、ゆとりの遊び心とおしゃれ感覚。創始者のココ・シャネルという人の生き方からして、憧れの的(まと)だった。
フランスのソーミュール市で生まれたココことガブリエルは、十二歳のとき、母親と死別、父親は失踪(しつそう)、修道院(しゆうどういん)で育てられた。二十歳のときに小さな衣料品店のお針子(はりこ)さんになり旅まわりの歌手などをして苦しい青春時代を過ごし、二十七歳でパリで帽子店(ぼうしてん)を開店させたのが、シャネル・ブランドのはじまり。
第一次世界大戦以後、一般的になった女性の社会進出にあわせて、新しい女性のための動きやすい服を考案した人でもある。大戦前は、たとえば競馬(けいば)を観戦にいくときなど、女性はコルセットで締(し)めつけ、おおげさなドレス、大きな帽子に身を包んで出かけていたが、シャネルは、乗馬服のような活動しやすい格好(かつこう)で出かけていたという。女がズボンをはくなんて、はしたないと考えられていた時代、ジャージをとりいれて、活動的で機能的な洋服を次々に考案・発表して、シャネルの店はパリでも人気ナンバーワンのオート・クチュールとなった。
晩年は恵(めぐ)まれない面もあったようだけれど、一九七一年に八十七歳の生涯(しようがい)を閉じるまで、柔軟な発想で自由奔放(じゆうほんぽう)に生きた人生に、私はすごく共感を覚える。
私が小・中学生のころに憧れたのは、黒柳徹子(くろやなぎてつこ)さんの『窓ぎわのトットちゃん』。柔軟な発想、天真爛漫(てんしんらんまん)、自由奔放、奇想天外(きそうてんがい)……シャネルの生き方とどこか共通するところがあるような気もする。私はあの本を読んで、本当に勇気づけられた。
「なんだ、勉強なんかしなくたっていいじゃん」って。
アンデルセンといい、トットちゃんといい、私の解釈(かいしやく)、間違ってたかな?
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