宝船ほうろくのいる神もあり
近世文学の学会を東京でやった時のこと、余興《よきよう》に隅田川《すみだがわ》の文学散歩を船でやることになった。やく三時間の予定、途中上陸するのは佃島《つくだじま》だけということだったので、缶詰《かんづめ》のビールといささかの食料品を仕こんで乗りこんだ。
乗合い七十人ほどのうち、若い女性が三分の一ほどである。思ったより川風が身にしみるので、浜離宮《はまりきゆう》のあたりからビールをグイグイとやり出した。佃島《つくだじま》でさかなのツクダ煮を買いこんだのはいいが、小用をたすのをつい忘れたものだから、船が出るとまもなく、どうにもがまんができなくなった。といって四十あまりも若い女性の目が光っているのに、まさか船べりから大川へ放尿するわけにもいかない。差し向かいでのんでいた友人も、ご同様と見えて、浮かぬ顔をしている。
そこでわたしは窮余《きゆうよ》の一策《いつさく》、足もとにころがっていたビールの空缶の飲み口を、缶切りでひろげ、さいわい風よけのレーンコートを羽《は》おっていたので、そしらぬ顔で話をつづけながら、ゆうゆうとやってのけた。
つまり、ビールをもとの缶にもどしたわけである。あわて者がまちがえてはいけないから、あとはただちに大川にほうりこむと、友人もまたわたしにならって、ゆうゆうとやってのけた。ビールの空缶が、こうも見事に物の用に立つとは一大発見であった。みなさんもご婦人づれで釣りなどにお出かけの節は、ぜひ缶ビールを、となるとコマーシャルじみるからよしましょう。
その時わたしは、あの、事を終えた直後のさわやかな気持で、若い女性群を見わたしながら、サゾこの中にはタエガタキヲタエ、シノビガタキヲシノンデいる人もあるであろうと、同情にたえなかった。
終戦後まもないことであるが、わたしの友人が東京まで一昼夜もかかる疎開先から老母をつれもどすことになった。ご存じのように、乗りこんだが最後、トイレに通うなどはもってのほかの状態であり、しかも年寄りはあの方が近いと来ているので、友人も頭をかかえこんでしまった。そこでわたしといろいろ相談したあげく、まだ使えるけれども背に腹はかえられず、中古の水枕を持参することにした。
それから一週間ほどして帰って来た友人の報告によると、ピッタリとして、こぼれる恐れもなく、まことにぐあいがよかったそうである。おまけに、その何回分かたまった水枕を見て、ぐるりの乗客が、老母を病人と勘ちがいして、いろいろ親切にしてくれて助かった、と付録までついての成功談には恐れいった。
今ではマア、たまに船遊びをするか、花火見物に船で出かけるか、沖釣りに出かける時以外にこまることもないわけだが、屋形船《やかたぶね》の船遊山《ふねゆさん》どころか、神田川《かんだがわ》から大川《おおかわ》筋にかけて猪牙《ちよき》船がタクシーがわりに走っていた江戸時代は、とっさにビールの空缶を、というようなことではすまなかった。そこで男は竹筒を用意したものであるが、ご婦人は構造がちがうので、竹筒では用をなさない。それにはそれに似合った形のもの、といえば、あの豆などをいる素焼《すやき》の平ぺったい焙烙《ほうろく》を、船中に用意してあって、その上にしゃがんで用をたしたものである。
ということになれば、主題句の宝船でほうろくのいる神さまはたった一人、女神《めがみ》の弁天《べんてん》さまである。それがまたグッとくるかっこうであるから、
ほうろくへたれると船頭こらえかね
ということになったのは、血気盛んの船頭としては自然の勢いであったろう。
しかし、シートでベーゼどころか、あられもないかっこうを見せつけられる現代の運転手諸君にくらべたら、物のかずではない。