死に切ってうれしそうなる顔二つ
しかし、いずれにしても、政府は、自分たちが作った道徳や制度へのつら当てに、若者たちがドカドカと心中するのは困るので、幕政改革のために就任した八代将軍|吉宗《よしむね》の享保《きようほう》八年、一七二三年にだんことして取りしまることになった。参考までに、その法令をあげておこう。
一、男女の情死せしは、今より後|死骸《しがい》とりすつべし。一人存命ならば下手人《げしゆにん》たるべし。死骸葬埋《しがいそうまい》なさしむべからず。はた双方ともに存命ならんには、三日が間、市にさらして非人《ひにん》の手につけらるべし。すべてかかる事跡を記して梓行《しこう》(出版)し、ならびに演劇に作りなすことかたく停禁たるべし。もし違犯せばとがめらるべし。
こうなると、うっかり心中はできない。死骸をとり捨て、埋葬をゆるさない、というぐらいは、死んじまえばそれっきりだから、さして抵抗を感じないとしても、生きのこったら下手人、つまり殺人罪で打ち首にするというのだから、心中するとなったら、どうしても死にきらなくては浮かばれない。
そこで、主題句の「死に切ってうれしそうなる」ということになるわけだが、一説にこの句は、シュウトかシュウトメにいじめ抜かれた若夫婦が、いよいよその意地わるじいさんかばあさんが息を引きとった時のうれしそうな顔二つなんだ、というのだが、じょうだんいっちゃいけない。たとえホッとしたとしても、かりにも親と名のついたものが死んだ時に、うれしそうな顔は現代でもできることではないし、ましていわんや、江戸時代にありうることではない。人情として、そういう場合は、嬉しさをおさえた悲しそうな顔二つ、というのが川柳であり、本当である。
だからこの句はやっぱり、片方が生きのこったら殺人罪で打ち首、両方が生き残ったら三日の間さらし者になって、そのあげく戸籍から抹殺されるという、この世の地獄をうまくのがれた満足の顔、ということになる。もっとも、死に顔は安らかであっただけで、「嬉しそうなる」というのは、作者の主観である。だから、
日本橋《にほんばし》死なぬを惜しく言うところ
ということになったのである。
三日間さらす場所というのは、日本橋の橋づめであった。なにしろ日本橋は、「お江戸日本橋七つだち」と歌にもあるように、日本のメーンストリート東海道の起点であり、江戸一番のにぎやかな通りのセンターで、人通りは最高だから、みせしめのさらし場として、えらばれたわけだ。そこで三日間、うしろ手にしばりあげた二人をさらし者にするということになると、はじめのうちは好奇心でからかったりしていた群集も、まかりまちがえば、おれもあの身の上、という実感がわいて来て、
——どうして、うまく死ななかったんだ。
というつぶやきが、聞こえるようにもなろうというものだ。
明治から大正、昭和と、近代化の一途をたどりながら、日本には心中があとをたたない。有島武郎《ありしまたけお》、太宰治《だざいおさむ》といった知識人まで、これに参加している。伝統が生きているらしい。しかし、成人に達すると、基本的チン権とマン権がみとめられて、双方の両親の許可なく、当人たちの合意で結婚が可能になった今日《こんにち》、心中するというのは、よほどのあわて者か、かい性《しよう》なしか、ともかくまともな人間であるはずがない。というわけで、色恋のための心中はほとんど影をひそめたが、倒産やサラ金のための一家心中が目立ちはじめたのは、いかに金権政治の時代とは言いながら、なさけない。しっかりせんかい。