心中《しんじゆう》があるでつよくもしかられず
友だちに長屋の鍵をかしたために、心中未遂でどなりこまれるはめとなったひとり者も、時いたれば好きな相手ができて、結婚ということになる。しかし、恋愛と結婚の自由を保証されている現代でさえも、たまに心中があるのだから、恋愛はみとめない、結婚は親がきめるという建前《たてまえ》であった江戸時代のことだから、なかなかスラスラと思うように、事ははこばない。すったもんだのあげく、当人たちは心中でもやらかしそうな雲行きになり、親たちは親たちで、これ以上ガンコなことをいったら心中でも、と二の足をふむ状態となり、そこの呼吸ひとつでめでたしめでたしとなるか、愁嘆場《しゆうたんば》となるかが、当時の恋愛結婚のなりゆきであった。
愛しあっている男女が、家庭の事情や社会の事情で晴れていっしょになれないというので、二人で死ぬという心中という行為は、外国にもたまにないわけではないが、なんといっても、日本人の特技である。その証拠には、英語にもフランス語にも、心中に相当する言葉がない。しかし日本でも、心中が全国的に流行するようになったのは、そう古いことではない。
すくなくとも十七世紀の後半、西鶴《さいかく》が活躍していたころまでは、情死のことを「思い死《じに》」とか「相対死《あいたいじに》」とかいって、芝居や小説でもたまにしか取りあげていない。もちろん、心中という言葉はあったのだが、たとえば、
浅からぬ千話《ちわ》のあまりに指切りて
浮かれ女《め》なれど強き心中
という西鶴の先生の西山宗因《にしやまそういん》の俳諧《はいかい》があるように、それは愛しあっている男女が、お互いにまごころを示す行為を意味し、けっして情死をさしていったのではなかった。ところが、情死が流行するようになると、いっしょに死ぬことが最高の誠意のあらわれということになって、いつのまにか心中は情死の代名詞になってしまった。そしてその時期は、十八世紀のはじめ、浄瑠璃《じようるり》作者の近松門左衛門《ちかまつもんざえもん》にとって最初の現代劇『曽根崎心中《そねざきしんじゆう》』(一七〇三)が大阪の竹本《たけもと》座で上演されたころから、といえば大体あたっていよう。
というのは、その翌年に出た『心中大鑑《しんじゆうおおかがみ》』という心中事件の報告文学に、
[#この行2字下げ]きのうも心中きょうもまた、あすか川の淵瀬《ふちせ》かわったことがはやりける。京大坂田舎ひとつひとつ集めければ全部五冊。
とあって、二十一件をおさめ、なおまた、おさめきれないから続編を出す、と予告している。それらはみな、主人への義理、親への義理、身分ちがいなどで結婚が不可能な上に、金もないというので、はげしい伝染病にかかったように、あっけなく心中している。
その原因はといえば、身分ちがいの結婚をみとめないという身分制度と、親や主人の命令どおりに結婚すべしという家族制度に、町人社会の青春が抵抗しきれなくなったからなのだが、もう二つほど、どうしても見のがせない条件がある。
というのは、死なねばならぬ|はめ《ヽヽ》になり、死ぬ決心をした男に引きずられて、
——あなたを一人死なせるわけにはいかないわ。
というのが、日本の心中の大部分だからである。
男はおとし穴だらけの社会で活躍し、女はその男をたよりに生きる存在で、夫唱婦随《ふしようふずい》、愛する男と運命をともにするのが女性の美徳である、という封建的道徳教育のおかげで、さっさとお供しちまったのである。
それにもう一つ、キリスト教国では、自殺は神のみ心にそむく罪悪であり、心中はそれがダブッているのだから、いよいよ大罪で、とてもあの世で添うことはできないどころか、自殺者や心中者の葬礼《そうれい》を、昔から教会ではいっさい受けつけないしきたりなのだから、アチラの人は心中がしにくいわけだ。ところが仏教国の日本では、この世は火宅《かたく》といって衆苦《しゆうく》充満、あの世へ行けばだれにもじゃまされずに、二人っきりで楽しく暮らせますなどと、無責任なことをいうものだから、大衆はそれがたとえであることを薄々承知していても、せめてあの世で、と死に急ぎしたのも無理はない。