道鏡《どうきよう》は腕人形もどどつかい
医者親子ともに女帝はご寵愛《ちようあい》
この二句で、やっとわたしは、多年の疑問を氷解するきっかけをつかむことができた。
弓削《ゆげ》道鏡の巨根説は、鎌倉時代からはじまっているが、もちろん所持品の使用が思うにまかせなかった坊主どもや、道具の貧弱な公卿《くげ》どもの劣等感とやきもちによってでっち上げられた作り話にちがいない。しかし、ともかく、ユーモラスな伝説なので、それ以来、おもしろ半分に語り伝えられ、川柳の好餌《こうじ》となったのはいたしかたもない。
道鏡はすわると膝が三つでき
道鏡にさて困ったと大社《おおやしろ》
鎌倉時代の『下学集《かがくしゆう》』に、「道鏡ハ法名ナリ、丹州弓削ノ人ナリ。後に洛《らく》ニ入ル。弓削ノ法皇ト号ス。即チ孝謙帝ノ夫ナリ。馬陰ニ量《はか》ルニ過ギタリ。咲《わろ》ウベシ。」とある。こういう、馬の一物より大きいのを、俗に「馬敬礼《ばけいれい》」という。さすがの馬も恐れいって、敬礼するからである。
そんなわけだから、出雲《いずも》の大社における八百万《やおよろず》の神々の縁結びの席上で、いずれも思案なげ首、これにふさわしい女性があるはずもない、困ったことになったわいと、しばし水を打ったようになったが、やがてひとりの神さまが勢いよく立ちあがった。
道鏡にあるぞあるぞと大社
すなわち、ここに女帝のご登場とあいなるわけだ。膝なみの道鏡をご寵愛《ちようあい》になったということになると、女帝のほうもそれにふさわしい、もしくはそれ以上の広陰ということにしなければ、理屈にあわない。そこで同じく鎌倉時代の『古事談』に、
[#この行2字下げ]道鏡ノ陰、ナオ不足ニ思召サレテ、薯蕷《しよよ》(山の芋)ヲ以テ陰形ヲ作り、コレヲ用イシメ給《たも》ウ。
とつじつまをあわせている。
さてそこで「腕人形」であるが、これは道鏡の場合にかぎるのであって、一般には「指人形を使う」という。アレを用いないで、指を用いるからである。ところがなにしろ女帝のアソコは広いので、指ではまにあわず、さてこそ腕人形を使ったろう、という、まことに失礼なゲスのかんぐりである。
「指人形」はいうまでもなく、人差指と中指をもっぱら用いる。したがって、親指と小指、ならびに薬指は遊軍ということになる。薬指はすなわち医者であり、親指と小指はすなわち親子である。人差指と中指では足らず、医者親子もろとも五指全部を女帝はご寵愛になった、すなわち道鏡の腕人形を好ませられた、というわけである。
ということになれば、もはや主題句の「門口」は問題でない。鉱物質でもなければ、植物質でもない。あの暖かくしめっぽい動物質の門口なのである。
もちろんこの句の場合は、道鏡が使う腕人形の場合と同じく、おのれの医者と親子ではない。他人の医者と親子で、かのいわゆる前戯《ぜんぎ》と称する場合。自動でなく他動である。しかし、もちろん、自動の場合もありうるわけだ。それについて最近、わたしの所へ出入りする若い者が、こんなことをいった。
この五、六年、三十娘はおろか四十娘がふえてきたのは、かつていわれた戦争ギセイ者というわけではない。戦前とちがって、女性が男性をきびしく選択するようになった上に、社会に進出して自活の能力を持つようになったからなのだ、などとわたしが女性進出論をぶっていると、仕方なしに相槌《あいづち》を打っていたその若い者が言った。
——ところで先生、その三十娘のことを近ごろなんというかご存じですか。
——なんというかしらんが、三十になろうと四十になろうと、未婚の女性ならミスはミス、オトメはオトメさ。
——それがですよ。二十《はたち》代まではですよ、まあオトメといっていいでしょう。三十代ともなるとですよ、オトメでは通りません。そこでですよ、オートメというんです。
——ふうむ、大年増《おおどしま》だから大トメかい。
と軽くいなすと、どすんと落とされた。
——そうじゃないんです。もうその年ごろになりますと、誇りは高いし、相手はいないし、あの方もオートメーションですませますから、略してオートメというんです。
まことに近ごろの若い者は、フラチ千万《せんばん》である。