弓削形《ゆげがた》はきらしましたと小間物《こまもの》屋
道鏡のはなしが出たので、ここにまた、ふたたび弓削氏に登場していただこう。もっともこの場合は、弓削形であるから、間接的登場である。それにこの句は、オートメにも深い関係がある。
現代は性の解放時代であるから、まにあわせに専属の医者と親子を門口で待たせることがあっても、道具を使用するなどという大時代な、あほらしいことをなさるお人のあるはずはない。戦前はそれでもまだ両夫にまみえずという古い道徳が生きていたから、そういう気の毒な人たちのために、治療用と称して保温器などというおかしな形の道具が、性器具屋の陳列棚にならんでいたものである。
ましていわんや江戸時代は、そういう道徳の全盛期であったから、女性にとって、その方面の不自由さといったらなかった。
それでも一般市民社会の女性は、男性に接触する機会も多かったから、たとえ不義密通といわれようとも、手代《てだい》の清十郎《せいじゆうろう》と契《ちぎ》った姫路《ひめじ》のお夏《なつ》や、寺小姓の吉三郎の寝室をおとずれた江戸|本郷《ほんごう》のお七のように、チャンスもあったわけだが、とくに江戸城の大奥や大名屋敷の奥女中は気の毒であった。
殿さまの住んでいる表と、奥方とそのおつきの奥女中の住んでいる奥は別棟になっていて、ここを公然とおとずれることのできるは殿さまだけ。しかも、お錠口《じようぐち》といって、表と奥との境に内外から錠をおろす出入り口があり、おまけに詰所があってきびしく出入りを監視していたのだから、とても殿さま以外の男の忍びこむ余地はなかったのである。
そういう、世にもきびしい男子禁制にかてて加えて、大奥などで将軍のお手のついたお局《つぼね》は、三十の声がかかると、女盛りであるにもかかわらず「御褥御免《おしとねごめん》」と称して同衾《どうきん》を辞退し、若く美しい自分の部屋子をすいせんし、手前を手前で予備役に編入するというしきたりだったのだから——だれだ、うちでもそうしたいというやつは——気の毒を絵に書いたようなものである。
そこで、増上寺《ぞうじようじ》や寛永寺《かんえいじ》へ代参する機会のあった老女、といっても侍女の頭《かしら》で婆さんではない連中は、坊主と仲よくしたり、その途中、役者買いをしたりしたものである。もちろんそれが表沙汰《おもてざた》になると、お手討ちになったり、島流しにされることはわかっているのだが、それでもなおかつというのだから、気の毒を通りこして、あわれである。老女|江島《えじま》が、役者の生島新五郎《いくしましんごろう》との色事がバレて、信州|高遠《たかとう》へ流され、生涯流されっぱなしで死んだという一件などは、その一例だ。
しかし、そういうチャンスにめぐまれたのは、老女と称する高級奥女中だけで、その下に使われている何百人、何十人の奥女中は、年に一度の宿下《やどさ》がり(藪入り)に、一日だけ浮世の風にあたり、男の匂いをかぐだけであった。そういう男子禁制の女性群のために、指人形ではあまりにもお気の毒であるから、せめては男性をしのんでいただこうと、実物よりも一まわりも二まわりも大きな代用品を考案し、江戸市中の小間物屋で売り出したのが張形《はりがた》である。
一般には国産の牛の角で、高級品は舶来の水牛の角で作り、もちろん中空であるから、お湯を入れて適当にお燗《かん》がつくようになっていたのだから、行きとどいたことである。
そこで、弓削形は、……ということになるのだ。
小間物でなくて大間ものを買い
という句もあるように、慣れてくると、どうしても、より大きな弓削形がのぞましい、というのが人情であろう。しかし初心のうちはなかなか買いにくかったと見えて、
いうも憂《う》しいわねば出さぬ小間物屋
と同情している。
これらは、みんな後期江戸の句であるが、こういうご用命はもちろん前期からあった。それを一番最初に取りあげて戯作したのが西鶴で、天和《てんな》二年(一六八二)刊の処女作『好色一代男』巻四「かわったものは男|傾城《けいせい》」の一章である。
さる大名の奥方に召し使われていた奥女中たちは、あたら二十四、五までも、男というものを見ることがまれで、ただもう枕絵を見て、一人で笑ったり歯ぎしりしたりするだけであった。ある日お局《つぼね》の一人が、使い番の女中をよびよせ、錦《にしき》の袋をわたし、
——これよりすこし長めで、太いぶんには何ほどでも苦しゅうない。今日のうちに求めておいで、と言いつけた。使い番の女中は中間《ちゆうげん》に風呂敷包みを持たせ、通行切手を見せて裏門を通り、歌舞伎《かぶき》のある堺町《さかいちよう》へんの小間物屋に出かけた。奥座敷に通って望みの品を注文したが、あいにく弓削形は品切れだったので、あつらえて引きあげると、ちょうど芝居がはじまるところで、さかんに客寄せをしていた。
そのころ江戸に来て、町奴《まちやつこ》の唐犬権兵衛《とうけんごんべえ》方の居候になっていた三十一歳の世之介《よのすけ》が、伊達《だて》な姿で木戸口にはいろうとするのに目をつけた使い番が、中間によびとめさせた。
——近ごろさし当たったご難儀《なんぎ》と存じますが、お人柄を見立てて、ぜひにおたのみしたいことがございます。私はさるお屋敷につとめている身でございますが、さきほど親のかたきにめぐりあいました。女の身では及びがとうございます。ご後見あそばし、この所存を晴らしてくださいませ。
と、ひたすら涙をこぼしてかきくどいた。世之介は引かれぬところと、女をまず付近の茶屋にあずけておき、家へかけもどって、くさり帷子《かたびら》に鉢巻をしめ、脇差の目釘をしめしてかけもどり、女をせき立てると、
——これが命のかたきでございます。ぜひこのかたきをとって思いを晴らしてくださいまし。
と、あわてず騒がず、かの錦の袋をさし出した。とりあえず世之介がひらいて見ると、二十一、二センチほどもあって、何年か使いへらし、先のちびた張形であった。
それについて、こんな江戸|小咄《こばなし》がある。大名屋敷へ奉公に上がっていた娘が、宿下《やどさ》がりで久しぶりにわが家へ帰って来たが、どうも様子がおかしい。母親が心配していろいろしらべると、おなかがふくらんでいる。できたことは仕方がない。
——相手はだれだえ。
と開きなおって問いただすが、なにしろ娘は身に覚えのないことなので、とほうにくれて返事をしない。
——それでもおまえ、なんにもしないで、そんなことになる道理がないじゃないか。
父《てて》なし子を産ませたくないばっかりに、母親が愚痴《ぐち》ると、
——男の人となにした覚えはないけれど、これならしょっちゅう使ってるわ。
と、せっぱ詰まった娘が思いきってさし出したのが、真《しん》にせまった見事なできばえの張形。母親がヒョイと裏を返してみると、根もとに左甚五郎《ひだりじんごろう》作とほってあった。さすがは名人の名作、生きてはたらいたとみえる。