朔日《ついたち》で払うは月の滞《とどこお》り
指人形を使ったり、牛の角細工を用いたりしている分には、おなかもくちくならないかわりに、あとくされもない。しかしほん物を用いると、そういうわけにはまいらぬ。たとえ合法的な夫婦の仲においてさえ、貧乏していると、これ以上できては困る、という場合がたびたびあった。
またまた恐れいるが、西鶴の最後の作品『西鶴|置《おき》土産《みやげ》』の中に、こんな短編がある。
なけなしの金をはたいて、愛し合っていた女郎《じよろう》を身請けして夫婦になった男が、女郎上がりだから子どもができないだろうと安心していたら、三つちがいで四人まで、娘《むすめ》の子ができてしまった。
これ以上できたら、一家心中するよりほかはないと覚悟して、「その後は子の事をうたてく、同じ枕をならべながら、人はしらぬ事、もはや十一年、何のこともせざりき。夫婦というたばかりに、世に住む楽しみの一つかけたり。」と、なまじ夫婦にならなけりゃ、子供ができてもなんとか片づくし、浮気もできたのに、となげく律義な男の話である。
それからまた、国学者が書いたらしい雅文調《がぶんちよう》の、ちょいとばかりワイセツな短編集の中にも、同様な話がある。
山奥に子どものひとりある木こりの夫婦が住んでいた。どう計算してみても、このうえ子どもができては暮らしが立たないというので、見込みがつくまで休戦協定をむすんだ。
それから半年あまりたったある夏の日、亭主が山から帰ってくると、女房が、かの愛嬌と威厳をそなえた部分を丸出しにして昼寝していたので、ついフラフラとイトナミにかかったが、なにしろ長い禁欲のあげくなので、女房が目をさますいとまもなく、事はすんでしまった。あとでコレコレシカジカとことわればよかったのだが、照れくさいので知らん顔をしていると、女房は覚えもないのにおなかがせり出してきたので、言い訳のしようもなく家出してしまった、という哀れにもまたおかしい話である。
何しろゴム製品や荻野式《おぎのしき》をはじめ、受胎調節の器具や薬品や方法が、ほとんどなかった時代は、こんな有様だったのだから、なんだゴム製品などと、仇《あだ》やおろそかに思ってはいけません。ところが、江戸も後期の田沼《たぬま》時代、宝暦《ほうれき》のころから、「朔日丸《ついたちがん》」という、毎月朔日に一服のんでおけば、その月中はけっして妊娠しないという、ピルの先輩みたいなのみ薬の避妊薬が江戸で売りだされ、浮気な後家さんや尻軽の娘さんたちに愛用されはじめた。
持薬さと朔日丸を後家はのみ
それをめんどくさがってやめると、
朔日をやめて十五夜腹に満ち
ということになったらしい。宝暦ごろから天保ごろまで、朔日丸の句が散見しているから、ききめは相当にあったのであろう。