妓王妓女《ぎおうぎじよ》ころび芸者の元祖なり
さて、いよいよ平家にあらざれば人にあらずという時代の大ボス、一代の色豪平清盛に登場していただこう。平家の没落を諸行無常《しよぎようむじよう》、栄枯盛衰《えいこせいすい》と見るのも勝手だし、武家の貴族化の結果と解釈するのも勝手だが、江戸の庶民はそれが清盛の好色の結果だという真相にメスを入れる。
『平家物語』の伝える清盛の乱行は、姉妹の白拍子《しらびようし》からはじまる。
白拍子というのは、勇壮な武家の好みに応じて登場した遊女のことで、白い水干《すいかん》(狩衣《かりぎぬ》の一種)に長袴《ながばかま》をはき、烏帽子《えぼし》をかぶり、太刀《たち》をおびるという男装の麗人が、伴奏音楽はなく、笏《しやく》拍子だけで歌いかつ舞ったので、素《す》拍子または白拍子といったのである。
そのころ都に、妓王《ぎおう》・妓女《ぎじよ》という姉妹の白拍子がいて、当時天下無双の舞姫とうたわれていたので、清盛はたちまち目をつけ、姉の妓王を手もとにおき、その母には毎月百石百貫の手あてをあたえた。
ところで、川柳がぼつぼつ流行しはじめた宝暦《ほうれき》・明和《めいわ》の田沼時代に、後の芸者の前身である踊り子なるものがあらわれた。遊芸のできる娘を仕立てたセミプロで、方々の酒席に出張して余興をつとめたものだ。これが後にプロ化して、吉原や深川の芸者となり、今なお余命を保っているわけだ。もっとも、今どきの温泉芸者などは、旦那持ち以外は転び専門で、不見転《みずてん》の名にも価しない。不見転というのは、芸だけを売物にするというたて前なのに、金で相手きらわず転ぶ妓《こ》をいうわけだ。もっともこの不見転というコトバは、もと博打《ばくち》用語である。花札バクチの時、親が勝負でまけても、親としての収人がまけをつぐなってあまりがあると見越し、手札のいかんをとわず勝負に加わることを「みずてん」といい、略して「みず」という。だから元来は、不見点である。
金につまずいて踊り子転ぶなり
セミプロの踊り子も、金につまずいて転ぶのだから、さしずめ清盛に転んだ妓王・妓女は、ころび芸者の元祖にちがいない、というのが庶民の見立てである。
しかし実際は、金で転んだわけではない。なにしろ当代随一の実力者だから、英雄崇拝も手伝って、妓王は清盛のオンリーであることにしごくご満悦であった。
ところがここに、仏御前《ほとけごぜん》という強敵があらわれた。妓王が清盛の手いけの花となってから三年目に、加賀《かが》の国(石川県)から出てきた仏《ほとけ》という、年はまだ十六の白拍子の上手が、都の人気を一手にさらった。このハイティーンは当時のヌーベルバーグであったと見えて、いくら人気があっても、清盛入道殿へ呼ばれないんじゃしようがない、というんで、呼ばれもしないのにおしかけて行った。清盛が腹をたてて追い返そうとするのを、妓王が仲間のよしみで同情して、
——まだ若いんですから、かわいそうじゃないの。せっかくだから歌わしてごらんなさいよ。
流しのバンドを客に売りこむバーのマダムのような口をきいたので、女に弱い清盛はたちまちその気になって、仏を呼びもどして歌わせ、かつ舞わせたところが、これがイケル。
器量もいささかくたびれた妓王より、一段と食欲をそそる、というので、たちまち妓王を追いだして、仏をあと釜《がま》にすえることになった。かくして、
清盛は仏のために迷わされ
迷った人間を救うはずの仏に、迷わされる身となったわけである。
清盛は仏せせりを床でする
仏だけ坊主とかわす新枕《にいまくら》
仏法にこることを、仏せせりという。せせるはいじるの意味だ。
もったいなくも清盛は、ベッドの中で仏さまをいじりまわす、ふといやつだ、というわけだ。仏の方からいうと、新枕の相手に入道は似合いの好取組だ。
六波羅《ろくはら》の仏で嵯峨《さが》に尼ができ
清盛がうつり気で、仏いじりをはじめ、妓王を追いだしたので、妓王は世をはかなんで尼になる決心をしたので、母親と妹の妓女も同情して、三人とも嵯峨の奥に庵《いおり》をかまえて尼になってしまった。
名は仏でもと嵯峨にて初手《しよて》そしり
見かえられた女の執念というものは、尼になったぐらいで消えるもんじゃないから、おりにふれて、
——あんちくしょう、仏とは名ばかりじゃないか。
と、カッカとしていたのだが、そのうちに仏の方も、人の身の上はわが身の上と悟って、
あとからも大|振袖《ふりそで》で嵯峨の奥
まだ十六、七の大振袖の仏が、世をはかなんで、清盛の邸をにげ出し、三人の住む庵をおとずれて、尼になってしまったので、口説《くぜつ》の種もなくなり、四人で行ないすますことになった。そこで、
しがらしの果てはありけり嵯峨の奥
と、川柳は結んでいる。
芭蕉と同時代の革新的な俳人|池西言水《いけにしごんすい》は、
こがらしの果てはありけり海の音
という名句をよんで、世に「こがらしの言水」と称された。それをもじって、しがらしの四人が、今では嵯峨の奥でひっそりと暮らしている、としゃれたのである。