頼政《よりまさ》にならべておいて煩《わずら》わせ
戒律を守る尼さんでさえも、右のとおりなのだから、ましていわんや、勃興期《ぼつこうき》の英雄どもときたら、万事があけっぱなしだ。
源三位頼政《げんざんみよりまさ》といえば、保元《ほうげん》・平治《へいじ》の乱に官軍にぞくして手柄を立て、後に平清盛《たいらのきよもり》に抗して、宇治《うじ》の平等院《びようどういん》で自刃した武将だが、謡曲の『鵺《ぬえ》』では家来の猪《い》の早太《はやた》をしたがえ、夜な夜な主上を悩ましたてまつる鵺という化鳥《けちよう》を退治したことになっている。時に主上は御感《ぎよかん》あって、獅子王《ししおう》という御剣を頼政にくださったのを、宇治《うじ》の大臣《おとど》が渡そうとして階《きざはし》をおりかけた時、ほととぎすが鳴いたので、
ほととぎす名をも雲居に上ぐるかな
今鳴いたほととぎすのように、そなたの勇名は上聞《じようぶん》に達した、名誉なことだ、と大臣がとっさによむと、
弓張月《ゆみはりづき》のいるにまかせて
雲居(皇居)の縁で、弓張月のような弓を射ただけです、と下の句をつけて、頼政は風雅の名もあげた。 この伝説とは別に、頼政には風流な逸話がある。鳥羽院《とばいん》の御所につかえる女官の中で、美人のほまれ高い菖蒲《あやめ》の前《まえ》に、頼政はかねてゾッコンほれこみ、文《ふみ》でくどきにくどいたが反応がない。その頼政の執心が、いつしか院のお耳にはいってあわれにおぼしめし、ある時、頼政を召して菖蒲の前とそっくりの女官を二人、あわせて三人をならべ、
——この中に菖蒲がおる。望みにまかせつかわすによって、連れてまいれ。
と仰せられた。
頼政は階《きざはし》の下で、四、五間もはなれているから、どれが本物の菖蒲か、見当がつかない。といってデンスケバクチじゃあるまいし、運ぷ天ぷで山かんをはるわけにもいかない。そこで、この多芸多能なる防衛庁長官は一首をたてまつった。
さみだれに池の真菰《まこも》の水ましていずれ菖蒲と引きぞわずらう
さみだれで池の水がまして、どれが真菰か菖蒲かわかりません、とよんだので、院はこの歌でイチコロとなり、おんみずから菖蒲の前を引きだして、頼政にたまわったという。
この二つの伝説を庶民は結びつけて、鵺退治のほうびに菖蒲の前をたまわった、と効果的に演出しているのである。
あの時は気がもめたよと菖蒲いい
いずれとはすこし菖蒲の不足なり
遠目がきかず、とんちの歌のおかげでやっと菖蒲をいただき、家へつれて行って、さし向かいでいっぱい、とくつろいだ時、
——まったくのところ、ヤレヤレだ。
——あたいだって、あん時は気が気じゃなかったわよ。
と、十二単衣《じゆうにひとえ》をぬいで地下《じげ》の女房ともなれば、世話にくだけたにちがいない。
——だけどサア、いずれ菖蒲とおっしゃったところをみると、目うつりなすったんでしょう。それでアンタ、ほんとにあたいが好きだったの?……ほんとかしら。
と、菖蒲がチョイとすねて見せた気持もわかろうというものである。
主従で鵺《ぬえ》と菖蒲《あやめ》を刺しとおし
謡曲に、頼政が鵺を射おとすと、「落つる所を猪《い》の早太《はやた》、つつと寄りてつづけさまに、九《ここの》刀ぞ刺したりける」とある。そこで、鵺を刺し通したのは家来の猪の早太、菖蒲を刺しとおしたのは主人の頼政ということになるわけだ。
早太には菖蒲刀《しようぶがたな》もくだされず
真菰《まこも》でもいいとすねてる猪の早太
二人がかりで仕とめたのに、飛びきりのほうびをもらったのは主人の頼政だけ、早太の方には菖蒲の前とまではいかなくとも、せめてその名にちなんだ菖蒲刀、五月の節供《せつく》の子どものおもちゃぐらいはくだされそうなものなのに、それすらくださらない。だから、さすがに気のいい早太でも、
——わたしなんざあ、真菰でもよござんすよ。
と、心の中ですねたに相違ないのである。
殿様は鵺から以後のおん朝寝
何しろゾッコンほれていた菖蒲を宿の女房にしたのだから、その当座は床ばなれがわるい。そこへもってきて、早太の方はすね気味なのだから、それがどうも気にかかってしようがない。
——殿さまも殿さまだ。
と、舌打ちしてるうちはいいが、だんだん腹が立ってくる。
お夜なべがちと過ぎますと猪の早太
と、やきもち半分に諫言《かんげん》することにもなる。しかし相手は主人のことだから、いくらやきもきしたところで歯は立たない。しかも早太は血気さかんの若者だから、自分はともかく、息子の方が承知しない。
頼政はあやめ早太はかきつばた
仕方がないから、われとわが息子をかきつばたということにあいなったという、聞くもあわれな物語である。