ふた晩、ほとんど寝ていなかったせいか、ハリーの感覚はいつもより研とぎ澄すまされていた。ゴドリックの谷から逃れはしたが、あまりにも際きわどいところだったために、ヴォルデモートの存在が前より身近に、より恐ろしいものに感じられた。その日も暮れかかったとき、見張りを交代するというハーマイオニーの申し出を断り、ハリーはハーマイオニーに寝るように促うながした。
ハリーは、テントの入口に古いクッションを持ち出して座り込んだが、ありったけのセーターを着込んだにもかかわらず、まだ震ふるえていた。刻こく一いっ刻こくと闇やみが濃くなり、とうとう何も見えないほど暗くなった。ハリーは、しばらくジニーの動きを眺ながめたくて「忍しのびの地ち図ず」を取り出そうとしたが、ジニーはクリスマス休暇きゅうかで「隠かくれ穴あな」に戻っていることに気づいた。
広大な森では、どんな小さな動きも拡大されるように思えた。森は、生き物で一杯だということはわかっている。でも、全部動かずに静かにしていてくれればいいのに、とハリーは思った。そうすれば、動物が走ったり徘徊はいかいしたりする無害な音と、ほかの不気味な動きを示す物音とを区別できる。ハリーは何年も前に、落ち葉の上を引きずるマントの音を聞いたことを思い出した。そのとたん、またその音を聞いたような気がしたが、頭の中から振ふり払った。自分たちのかけた保ほ護ご呪じゅ文もんは、ここ何週間もずっと有効だった。いまさら破やぶられるはずはないじゃないか しかし、今夜は何かが違うという感じを拭ぬぐいきれなかった。
ハリーはテントにもたれて、おかしな角度に体を曲げたまま寝込んでしまい、首が痛くなって何度かぐいと体を起こした。ビロードのような深い夜の帳とばりの中で、ハリーは、「姿すがたくらまし」と「姿現わし」の中間にぶら下がっているような気がした。そんなことになっていれば指は見えないはずだと思い、目の前に手をかざして見えるかどうかを確かめてみた、ちょうどそのときだ。
目の前に明るい銀色の光が現れ、木立の間を動いた。光の正体はわからないが、音もなく動いている。光は、ただハリーに向かって漂ただよってくるように見えた。
ハリーはぱっと立ち上がって、ハーマイオニーの杖つえを構えた。声が喉元のどもとで凍こおりついている。真っ黒な木立の輪郭りんかくの陰で、光は眩まばゆいばかりに輝かがやきはじめ、ハリーは目を細めた。その何物かは、ますます近づいてきた……。
そして、一本のナラの木の木陰から、光の正体が歩み出た。明るい月のように眩まぶしく輝く、白銀の牝鹿めじかだった。音もなく、新雪の粉雪に蹄ひづめの跡あとも残さず、牝鹿は一歩一歩進んできた。睫まつ毛げの長い大きな目をした美しい頭かしらをすっと上げ、ハリーに近づいてくる。
ハリーは呆然ぼうぜんとして牝鹿を見つめた。見知らぬ生き物だからではない。なぜかこの牝鹿を知っているような気がしたからだ。この牝鹿と会う約束をして、ずっと来るのを待っていたのに、いままでそのことを忘れていたような気がした。ついさっきまで、ハーマイオニーを呼ぼうとしていた強い衝動しょうどうは消えてしまった。間違いない。誰が何と言おうと、この牝鹿はハリーのところに、そしてハリーだけのところに来たのだ。
牝鹿めじかとハリーは、しばらく互いにじっと見つめ合った。それから、牝鹿は向きを変え、去りはじめた。
「行かないで」
ずっと黙だまっていたせいで、ハリーの声はかすれていた。
「戻ってきて」