牝鹿は、おもむろに木立の間を歩み続けた。やがてその輝かがやきに、黒く太い木の幹みきが縞しま模も様ようを描きはじめた。ハリーはほんの一瞬いっしゅんためらった。罠わなかもしれない。危ない誘さそいかもしれない。慎重しんちょうさが囁ささやきかけた。しかし、直感が――圧倒的な直感が、これは闇やみの魔術まじゅつではないとハリーに教えていた。ハリーは跡あとを追いはじめた。
ハリーの足下で雪が軽い音を立てたが、木立を縫ぬう牝鹿はあくまでも光であり、物音一つ立てない。牝鹿は、ハリーをどんどん森の奥へと誘いざなった。ハリーは足を速めた。牝鹿が立ち止まったときこそ、ハリーが近づいてよいという合図に違いない。そして、牝鹿が口を開いたとき、その声が、ハリーの知るべきことを教えてくれるに違いない。
ついに、牝鹿が立ち止まった。そして美しい頭かしらを、もう一度ハリーに向けた。知りたさに胸を熱くし、ハリーは走り出した。しかし、ハリーが口を開いたとたん、牝鹿は消えた。
牝鹿の姿はすっぽりと闇に飲まれてしまったが、輝く残像はハリーの網膜もうまくに焼きついていた。目がチカチカして視界しかいがぼやけ、瞼まぶたを閉じたハリーは、方向感覚を失った。それまでは牝鹿が安心感を与えてくれていたが、いまや恐怖が襲おそってきた。
「ルーモス 光よ」小声で唱となえると、杖先つえさきに灯あかりが点ともった。
瞬まばたきをするたびに、牝鹿の残像は薄うすれていった。ハリーはその場にたたずみ、森の音を、遠くの小枝の折れる音や、サラサラという柔らかな雪の音を聞いた。いまにも誰かが襲ってくるのではないか 牝鹿は、待ち伏せにハリーを誘おびき出したのだろうか 杖灯りの届かないところに立っている誰かが、ハリーを見つめているように感じるのは、気のせいだろうか
ハリーは杖を高く掲かかげた。誰も襲ってくる気配はない。木陰から飛び出してくる緑色の閃光せんこうもない。ではなぜ、牝鹿はハリーをここに連れてきたのだろう
杖灯りで何かが光った。ハリーはぱっと後ろを向いたが、小さな凍こおった池があるだけだった。よく見ようと杖を持ち上げると、暗い池の表面が割れて光っていた。
ハリーは用心深く近づき、池を見下ろした。氷がハリーの歪ゆがんだ姿を映うつし、杖灯りを反射はんしゃして光ったが、灰色に曇くもった厚い氷のずっと下で、何か別のものがキラリと光った。大きな銀色の十字だ……。