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決められた以外のせりふ09

时间: 2019-01-06    进入日语论坛
核心提示:「新演劇研究会」と「山の樹」 ぼくらが、日吉の予科から三田の学部へ移ったのは、昭和十五年の四月である。 そのころの仏文は
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「新演劇研究会」と「山の樹」
 
 
 ぼくらが、日吉の予科から三田の学部へ移ったのは、昭和十五年の四月である。
 そのころの仏文は、三学年あわせて、二十人に満たない少人数だった。同級に、堀田善衞、鬼頭哲人がいた。堀田は、予科では法科だったのが、学部に進むときに、仏文に転じたのである。
 加藤道夫も同期だったが、これも堀田と同様に、法科から英文に変っていた。仏文の三年に、白井浩司がいた。
 堀田とは、三田で知り合ったが、加藤とは、日吉時代からのつきあいだった。日吉時代に、西洋史の神山四郎や梅田晴夫やいま丸善にいる八田徳治たちのやっていた「素描」という同人雑誌があり、加藤もそのメンバーに加わっていたので、ぼくと同級の八田が紹介してくれたのである。
 文学座がマルセル・パニヨールの「蒼海亭」を飛行館で上演した。その廊下ではじめて会った。熊の仔みたいな奴だと思った。オニールが好きで、よく読んでいるらしかった。
 映画にもなかなか関心があるらしく「素描」には「七面鳥と男」と題するシネ・ポエーム風のシナリオを書いたりしていた。その後、加藤とは、急速に親しくなった。一緒に「新演劇研究会」と称するグループをつくり、芝居の勉強をはじめた。
 東大、商大、成城、津田英学塾など、方々の学校から、それぞれの学校の「劇研」にあきたりぬ連中が、集まってきた。そのころの「劇研」は、どこでも大抵、翼賛会のにおいのする農村劇をやっていたのである。
 しかし、加藤道夫がいなかったら「新演劇研究会」もなかっただろう。加藤は友情にあつく、人を集める天分とでもいうべきものを持っていた。「新演劇研究会」には、鬼頭哲人、原田義人、鳴海弘などがいた。二年間にポール・グリーン、ジュール・ロマン、モリエールなどの作品を上演したが、学生課でなかなか許可してくれないので、困ったことをおぼえている。学生芝居の時代ではなかったのである。
 芝居をやっている一方で、ぼくは、詩の同人雑誌「山の樹」にも加わっていた。これも、予科時代からで、国文へ行った鈴木亨が中心になっていた。鈴木は中学時代、伊東静雄氏の教え子だったので、自然「山の樹」も「四季」や「コギト」の色彩を帯びていた。この雑誌には、仏文で一年上の村次郎、小山弘一郎も加わっていたし、白井浩司もサルトルの「部屋」の翻訳を発表している。(これはサルトルの作品の邦訳としてはおそらく最初のものであろう)また、この雑誌を通じて、ぼくらは東大の友人達と知り合った。中村真一郎、小山正孝、福永武彦、加藤周一、白井健三郎……
 ぼくらはよく、日吉と駒場から、渋谷でおちあって、今はない「ウインナ・ベーカリイ」の片隅で、濃いクリームを浮かせたウインナ・コーヒーをのみながら、コクトーの新作の戯曲の話をしたり、「イタリー・レストラン」でマカロニ・ナポリタンなどというものをたべながら、山中貞雄のモンタージュについて論じあったりしたものだった。そして、リルケとかヴァレリーとかが、いつもぼくらの話題になった。
 堀田善衞は、ひとりで、やっていた。ぼくらの芝居に、無言役で出たり「山の樹」の連中ともつきあってはいたが、本当は何をしているのか、よく分らなかった。
 バルザックや、ドストエフスキーや、ランボーをこつこつ読んでいるらしいことはわかったが、なにも書かないから、飄々《ひようひよう》として激しやすく、厳格でやさしい人柄が裡になにを蔵しているのか、ちょっと見当がつかなかった。
 西脇順三郎先生の文学概論、折口信夫先生の藝能史、奥野信太郎先生の中国小説、佐藤朔先生のフランス近代詩などの講義をきいた後、牛込の印刷所で、ミケランジェロ作、杉浦明平訳「おいしい、あきない、ねばりつく、あなたは、お砂糖みたいだね」というような詩の校正をやったり、神田の古本屋をあさって、ジャン・アヌイという若い作家の戯曲をみつけて興奮したり、——何だか知らないが、いろいろなことをいっしょくたに夢中になってやっていたものだ。
 昭和十七年十月、ぼくらは繰上卒業で、軍隊に入った。前もって、わかっていたことであった。
                                             ——一九五七年一〇月 三田新聞——
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