チネ子の話をしよう。
東北岩手の生れである。もし彼女がほかの地方の生れだったら、ツネ子と呼ばれたであろう。東北なまりをそのままに、チネ子と戸籍に記入された名前を、彼女ははずかしがった。
チネ子が私の家へ来たのは、十年ほど前の雛祭の日であった。
上野駅の改札口へ迎えにいった家内は、初対面のチネ子を発見するのに、何の苦労もいらなかったという。あらかじめ写真同封の手紙で書いて寄こした通り、身長一メートル六十五、体重五十四キロ、ボストン・バッグとスーツ・ケースを持って、目印の黄色い毛糸の帽子をかぶった彼女は、着ぶくれているから、ますます大きく見えた。小型のタクシーの座席に、着ぶくれたチネ子と並んですわると、はなはだ窮屈であった。
チネ子は鼻の頭に汗を浮べて、しばらく呆然と窓の外をながめていたが、やがて感に堪えたように「大きいわね」と言った。東京の町の大きいことを、彼女は言ったのだが、内心、チネ子のことを「大きいわね」と思っていた家内は、ギョッとしたという。
つきそって上京するはずの伯父が、急に仕事の都合で来られなくなったという事情があったにせよ、岩手県から一人で出て来るのはたいへんだったろうと思い、きいてみると、「子供じゃないから。ワッハハハ」と豪快に笑った。二十二歳である。
両親と弟と妹と五人暮しの山奥の村から、歩いて一時間あまりの小学校へかよい、その小学校のある村からさらに汽車で一時間四十分かかる大きな町の中学と高校へかよった。
高校を卒業すると、同じ町にある幼稚園の先生になった。子供たちといっしょに、相撲《すもう》や、綱引きや、駈けっこをした。歌をうたった。チネ子は子供が大好きであった。
東京から偉い先生方が授業の参観に来たことがある。体操がすんで、歌をうたおうとしたら、先生の一人が、絵を描かせてごらんなさいと言った。チネ子は心臓が止りそうな気がした。絵は、彼女の苦手中の苦手で、小学校でも中学校でも、ほかの課目はいい点がとれるのに、絵だけはだめであった。子供たちに教えるのも、あまり気乗りがしないのだ。今日は絵を教えよう、と思っていても、つい、歌をうたってしまう。彼女は生徒たちに絵を描かせたことが、ほとんどなかったのである。
仕方がないから、画用紙とクレヨンをくばって、「先生の顔を描いてごらん」と言った。子供たちの描く絵をみて、偉い先生方はにこにこ笑った。どれもこれも、顔からいきなり手と足がはえていた。チネ子は穴があれば入りたいと思った。
二十歳の春、お見合をして、お嫁に行った。ひどく、乱暴な男であった。ついにたまりかねて、ある日、ぶたれた時、赤インクの瓶を投げ返した。夫は文字通り、真赤になった。離婚。
そんな身の上話をした後で、チネ子はかならず、「ワッハハハ」と豪快に笑った。悩みがなかったはずはない。しかし元来が、明るい、物事にこだわらぬ気質なのである。
大柄で、色白で、まず十人並の器量である。声には力があって、「はいッ!」と返事をすると家中に鳴りひびく。二人の娘はチネ子によくなつき、チネ子のほうでも、子供は好きだから、よく面倒をみてくれた。
渋谷のデパートへ買物に行かせたことがある。午後の一時に家を出たまま、夕方になっても帰らない。
駅まで十分、電車で十分、乗り降りや電車を待つ時間を勘定にいれても、四十分あれば、十分目的のデパートへ着くはずである。迷子になったか。それとも、電車に事故でもあったか。やきもきしていると、五時半ごろ、帰ってきた。真赤な顔をして、にこにこしながら、
「ただいま! ああ、くたびれた」
と言う。
「ずいぶん、遅かったわね」
「歩いて行ってきました」
遅いわけである。
「どうして電車で行かなかったの?」
「駅まで行ったんですけど、きいたら渋谷って、三つ目の駅だっていうから。三つぐらい歩いても平気だから。お金も、もったいないし」
なるほど、彼女の身になってみれば、無理のない話である。家内は、時間と労力の節約の大切なことをチネ子に呑みこませるのに、だいぶ手間どったようだ。
そんな風だから、チネ子はまったく骨惜しみなく、よく働いてくれた。
どういうわけだか、靴にひどく興味をもつ。靴磨きは、彼女のもっとも好む作業で、磨く前に、靴を手にとって、しげしげとながめる。私の黒の一文字や、家内の灰色のハイ・ヒールは、なかんずく彼女のお気に入りで、裏を返したり中をのぞきこんだり、まるで美術品でもながめるように、飽きることなくながめている。
ある日、客があった。客が二階へあがるや否や、チネ子は玄関へとんで行き、客の穿《は》いてきたコードヴァンのスリップ・オンを持って、茶の間にいた娘たちに見せに来たという。
「ちょっと! ほれ、この靴! ワッハハハ、おもしろい」
あとでチネ子は家内に叱られて、しょげた。
しかし、それ以来、彼女はその客に、ひどく好意をもったようである。その客が来るたびに、飛んで出て、「いらっしゃいまし」と丁寧に挨拶し、にこにこして靴を見る。帰り際にも、丁寧におじぎをして、靴を見て、にこにこする。客に好意をもったのが先か、靴に好意をもったのが先か、そのへんは不明だが、度重なれば、チネ子の気分は客にも伝わると見えて、ある日彼は、「君のとこの女中さん、おもしろいね。いつでもにこにこしている」と言った。
この客は「なよたけ」の作者、加藤道夫で、加藤が死んだ時、チネ子はぼろぼろ涙をこぼして泣いた。
歩くことがちっとも苦にならないから、お使いは大好きである。娘たちを誘って、嬉々として出て行く。
往来に蓙《ござ》を敷いて、接着剤を売っているのを見たことがある。小さな火鉢で、割れた茶碗の割れ口をあぶり、あやしげな接着剤を塗ってくっつけたのを、蓙の上にたたきつけながら、「ほうれ、一度ついたら、この通りだ。たたきつけてもびくともしない」と言うのを聞いて、チネ子が娘にささやいた。
「手加減してぶつけているんだ。蓙の下にふとんが敷いてあるよ。割れないのはあたりまえよね、フフフ」
娘は青くなって、チネ子の手を引っぱって人垣をはなれた。当人はささやいているつもりでも、声に力があるから、ちっとも、内証話にならないのである。聞えたら、ただではすまない。
チネ子にそれを言うと、ちょっとひるんだが、すぐに「こわくないわよ、あんなやせっぽち。インチキは大嫌いよ」と言った。
テレビでは、相撲が大好きである。文字通り、熱中する。赤くなり、拳をにぎりしめて、「栃錦!」などと声援をおくる。
彼女のひいきは、例外なく、均斉のとれた体格の力士で、中でも、鶴ヶ嶺が、第一等のごひいきであった。立合いがきれいであること、彼女の表現にしたがえば、「ごまかさない」ことが、気に入った第一の理由である。「へんなことをしない」のも、いい。つねに正々堂々と二本差しになって、正面から寄り切る。あれがほんとうの相撲だ、と彼女は言うのである。なかなか、目が高い。
チネ子は私の家に三年ほどいた。
三年目の夏に、家から手紙で、一週間ほど暇をくれと言ってきた。縁談であろうと、私たちは察した。
帰ってきたチネ子は、おみやげに、十姉妹のつがいをくれた。弟が小鳥を飼うのが好きで、この十姉妹も家で生れたのだという。
きいてみると、やはり、縁談であった。
さすがにまじめな顔をして、「お嫁に行くことにしました」と言った。相手は会社員であるという。
「もう、こりているから、断わろうと思ったんですけれど、会ってみたら、いい人なので」と言って、赤くなった。
チネ子が帰る時、娘たちは別れるのを辛がって、泣いた。チネ子も泣いた。そして、ふと思い出して「けさ、十姉妹に水をやるの忘れてました。おねがいします」と言った。
結婚して、男の子が生れた。送ってきた写真を見ると、チネ子に似て、よく肥った、丈夫そうな子であった。
勤めの関係で、しばらく九州へ行っていた。九州場所の大相撲を見て、「ほんものの鶴ヶ嶺をはじめて見ました。おすもうさんはみなテレビで見るよりもずっと色が黒いのでおどろきました」と、絵はがきの便りをくれた。
その後、長らく、チネ子の顔を見ない。便りだけは、ときどき、思い出したようにくれる。
十姉妹はその後、どんどんふえた。飼いきれないので、人にわけた。現在何代目かの鳥が四羽いる。世話は娘たちがする。しかしこのごろは家の裏を通る道路がひろくなり、自動車の通行が繁くなったので、騒音におびえたのか、卵を生まなくなった。働きものの気丈なチネ子が見たら、ふがいない鳥だと歎くことだろう。
——一九六五年一月 PL婦人——