——内職をしよう、と加藤道夫がいった。
昭和十六年、ぼくたちは大学生だったが、その頃、まだアルバイトという言葉は使っていなかったのである。
——そうする他はないだろう、とぼくは若き「なよたけ」の作者に同意した。
そのころ、ぼくたちは「新演劇研究会」というグループをつくり、神田錦町の貸席、錦橋閣の小さな部屋を借りて、一と晩おきに集まっては、脚本の朗読をしたり、ルイ・ジュヴェとか、ベルト・ポヴィとか外国の名優の吹きこんだレコードを聴いたり、芝居についての議論をしたりしていたのだが、そのうちに、自分たちで実際に芝居をしてみなければ、どうにも収まりのつかないような気持になっていた。
それにしても、芝居をやるとなると、一体どのくらい金が要るものだろうか。さっぱり見当がつかなかったが、どの劇団でも、舞台稽古はかならず夜中にやっているところをみると、小屋代は安くないものと思わなければならなかった。
稽古期間を、六カ月ときめたのは、ひとつには、むろん、徹底的な稽古をやるためだったが、資金の積立をするためにも、それくらいの期間はどうしても必要だと思われたからである。
築地小劇場(当時はもう、国民新劇場と改称されていたが)へ様子をききにいったが、まず、大道具の高いのにびっくりした。
一ぱい(一場面)で、三百円だという。
大学出の初任給が、六十円前後だったころの三百円だから、大金である。
しかも、ぼくたちの予定している芝居はどう少なく見積っても三ばいは必要である。とすると、大道具だけで、もう、九百円かかる勘定になる。
加藤とぼくは、すこし青い顔になり、大道具部屋の框《かまち》に腰をおろしたまま、張りぼての石燈籠や、白樺の木や、壁にかけならべた鋸《のこぎり》や鉋《かんな》を、ぼんやり眺めまわした。
そのほかに、小屋代がいる。衣裳や小道具も借りなければならないし、照明や音響効果のための費用も必要だろう。ポスターは自分たちで描くとしても、切符やプログラムは、印刷所にたのまねばならぬ。
仲間は十五人ばかりいたが、公演のための多額な準備金を、皆に等分に負担してもらうことは、事実上、出来ない相談だった。といって、それをすすんで引きうけるほどの余裕は、加藤にも僕にも、ある筈がなかった。それならば、芝居をやろうといいだした責任上、何とか方策をたてなければならない。相談の結果、会員は毎日の会費のほかに、公演用として若干の積立をすることにし、加藤と僕とは「内職」によって資金の捻出をはかることになったのである。
加藤は通訳をはじめた。英語とフランス語とドイツ語がしゃべれるから、たいへん具合がいいようであった。三田の大学の教室を出て、日比谷の帝国ホテルで「内職」をして、神田の稽古場へくるから、道順もいいのである。
僕は、父の全集の出版中に、その校正の仕事をときどきのぞいたことがある。時には、見よう見真似で、朱を入れるのを手伝ったりもした。その後、友人たちの詩の同人雑誌にも加わっていたから、割りつけや、活字の指定や、校正をすることが、いくらかは出来るようになっていた。家庭教師という手も考えないではなかったが、雑誌の校正の手伝いの方が気楽だろうと、勝手にきめた。
すると、ちょうどそこへ、佐佐木茂索さんから、文藝春秋社へ嘱託の形で、しばらく来てみる気はないかというお誘いをうけたのである。たいへん、ありがたかった。こうして、僕にも「内職」ができた。
週に三日、学校の早く終る日に、社へゆく。
校正刷が出はじめると、小石川の共同印刷へ出張する。そうなると、毎晩遅くなるから、芝居の稽古は、その間だけ休まなければならない。
僕は、「文學界」の編輯部へ配属された。編輯長は庄野誠一さんだった。庄野さんは三田の先輩だが、会ったのはこの時がはじめてである。「肥った紳士」はなかなかしゃれた作品だったが、作者の庄野さんは、まぶしそうな横目をつかいながら、微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮べて、低い声で話す、痩せた紳士だった。
「文學界」の編輯部には、やはり嘱託として、牧野英雄君がいた。年は僕より下だったが社内のこと、文壇のことをよく知っていたから、分らないことは、大抵牧野君にきくことにしていた。大柄な牧野君は、いつも快活で親切だった。
社へ行って、机に向っても、さてこれといった仕事があるわけではない。雑誌のバックナンバーをあれこれとひっくりかえして、活字の大きさや、組み方、目次の立て方、何号活字で何段組にすると一頁に原稿何枚分が入るかというようなことをおぼえてしまうと、後はもう、何もすることがない。ゲラ刷りが出るまで待機である。割りつけは庄野さんが、さっと片づけてしまうので、手の出しようがない。
あんまり暇なのは気がひけるから、庄野さんに、何かすることはありませんか、というと、横から牧野君が、ピンポンしませんか、あの組がもうじき空きそうだから、と笑いかける。なるほど、暇なのは自分だけではなさそうだと気がついた。
次の日から、本を持って行くことにした。
ある友人の家でロダンの彫刻の写真集を見た。見ているうちに、欲しくなったが、友人はどうしても承知しない。一週間貸してやるから、それで諦めろという。止むを得ず借りることにして、持って歩いていた。
社の机でそれを見ていたら、「それ、君のか」という声がする。ふり向くと、永井龍男さんだった。
永井さんが、何の編輯長だったか、覚えていない。とにかく、声をかけられたのははじめてである。友人からの借物である旨を答えると、永井さんは黙ってその写真集を手にとり、一枚一枚、見はじめた。
その頁を繰る手が、止った。いつまで経っても、動かない。
それは、六つの小さな彫刻の頁だった。彫刻というよりは、手すさびといった方がいいかも知れぬ。一見、子供の粘土細工かと思われるほど素朴なもので眼も鼻もない真ん丸な頭と、元も先も同じ太さの腕と脚とで出来ている。踊り子のつもりなのであろう、六つとも、それらしいポーズをしている。持てば、掌の内に入るだろう。
永井さんは、一と通り終りまで見てしまうと、また、その頁をあけて、同じようでひとつひとつ違っている六つの単純な踊り子を、しばらく眺めていた。そして、「おもしろいね、これ」と言った。
僕はそれを、いかにも「絵本」の作者らしいと思った。
それからまた、以前、永井さんが、ルナールの「にんじん」のように短い独立した話を連ねた形式の長篇を書いてみたいと、どこかに書いておられたのを、思い出したりした。
ある日、僕は机に向ってぼんやりしていた。庄野さんは風邪らしく、マスクをかけて、本をよんでいる。牧野君はいないし、隣の机の桔梗利一さんも出かけている。早くゲラが出るといい、これじゃとてもたまらないなどと思っているうちに、ふと眼をあげると、受付の方から、こちらへ向って歩いてくる異様な人物がある。
おそろしく長身である。黒紋付に羽織袴《はかま》で駒下駄をはいている。小さな風呂敷包みをもっている。猫背で、抜け上った広い額にはやわらかい黒い髪が垂れ、ぎょろりとした巨きな眼が、ななめに天井を見上げている。身体はそのまま、ゆらゆらとまっすぐに此方へ向って歩いてくるのである。ちょっと、フランケンシュタインのボリス・カーロフをやせぎすにしたような趣がある。
その人物は、そのまま、僕の後ろを通りぬけ、菊池さんのいる社長室へ入っていってしまった。
僕はよほどへんな顔をしていたらしい。庄野さんが、目だけで笑って、マスク越しに教えてくれた。「花田長太郎八段。将棋」
そんな風だったから、共同印刷へ出張校正にゆくときには、かえって張りがあった。父の全集の校正をやっておられた高橋幸一さんがご一緒なのも、心強かった。
はじめのうちは、活字が少しかすれていたり、汚れがあったりすると、むやみに赤インクで印をつけて、庄野さんに、「君の校正はすこし神経質すぎるね」とわらわれたが、だんだん要領がわかってきた。詩の雑誌と散文の雑誌とでは、校正の仕方まで違うのである。
印象にのこっているのは、森山啓さんの評論の校正である。何故印象にのこっているかというと、原稿に加えられた推敲が、実に綿密だったからだ。消しては書き、それをまた消し、真黒になって読めないところは上からその部分だけまた原稿用紙を貼りつけて、その貼りつけた部分がまた徹底的に推敲されている。一段落ついたと思うとそこから線を引いて左の欄外へ移り、足りなくなって右の欄外へ移り、実に読みにくいのである。しかしその評論は、校正の必要上というよりも、評論自体のおもしろさで、否応なしにそのつづき具合を辿らざるを得ないようにできていた。
森山さんご自身も、この校正を気にされたと見えて、わざわざ印刷所の校正室へゲラを見に来られたが、それがすむと、となりの椅子で校正をしていた僕に、いきなり挨拶をされた。
「あなた、真鍋呉夫さんですね」
僕はびっくりした。
森山さんがどうして僕を真鍋さんと間違われたか、いまだにわからない。
「新演劇研究会」の発表会は、予定通り、行うことができた。アメリカとフランスの現代劇を、加藤とぼくとが一つずつ訳し、それに加藤の創作劇一篇を加えて上演した。
会員券は九十九銭だった。一円以上になると入場税がつくので、売上高に影響しそうだということになり、敬遠したのである。当時文学座などの一般の新劇団の入場料は一円三十銭位だったように思う。
芝居を終えてみると(といっても、たった二日しかやらなかったのだが)、一円七十銭だかの黒字がのこった。
そのすぐ後で、太平洋戦争がはじまった。
しかし文藝春秋社のなかの空気は、そのために特にどう変ったということもないように見えた。いや、実際には、そうではなかったのであろう。大きな時局の変化が、文藝春秋社にかぎらず、ジャーナリズムの世界をゆすぶらなかった筈はない。
ただ、ぼくたちは、いずれ戦争に駆り出される時がくるだろうが、その時は、その時のことだと思っていたから、繰上げ卒業にそなえて、早目に卒業論文にとりかかりながら、依然として「内職」をつづけていた。そして卒業する前に(というのは、兵隊になる前に、という意味だが)モリエールを上演するべく、準備にとりかかった。
ある日、社へゆくと、見なれない人が向うの机に坐っていた。高橋幸一さんに、あれは誰ですかときくと、今度社へ入った小野詮造さんという人です、と教えられた。小野さんはそのとき、五分刈りの頭で、いかにも、学校を卒業し、徴兵検査をうけた直後の入社という感じがした。後年、映画「自由学校」の五百助に推されただけあって、小野さんは、その頃から、堂々たる体格と、悠容迫らざる風貌をそなえていた。
あまり口を利く機会はなかったが、あんなりっぱな体格の持主が、兵隊にとられなかったらしいところをみると、ぼくは当然免れるはずだなどと、無益な推量をしたことがある。
いま考えてみてどうも腑におちないのは、「文學界」の編輯の手伝いをしていたくせに、河上徹太郎さんを除いて、そのころの「文學界」の編輯同人の方に一人もお会いした覚えのないことである。校正ばかりやっていたせいもあるだろうが、それにしても、編輯室やレインボーで誰か見かけるぐらいのことはあっても不思議はない筈なのに、全然記憶がない。
まして、「文學界」以外の編輯部、——「文藝春秋」や、「オール読物」の方の様子などは、皆目わからなかった。出版部には、後に南方で戦死された江原謙三さんがいた。ときどき、新刊の本を持ってこられて、「これ、あげます」と静かな声で言われたのが、妙に印象に残っている。寡黙な、優しい人柄だった。
それでは、自分で校正した「文學界」の、創作や評論のことを、よく覚えているかというと、これも、さっぱり記憶にのこっていない。友人達とさかんに語り合った外国の文学についての記憶があるばかりである。そして、印刷所の校正室で、夜中、校了になった後、みんなでたべた鍋焼うどんが、ものすごく熱かったというような、他愛もない記憶があるばかりである。
昭和十七年の七月、予定通り、モリエールの「亭主学校」を上演して、ぼくは軍隊に入った。
二年後。ぼくらの飛行隊は、浜松の飛行場で、慰問団の訪問をうけた。一行のなかに、横山隆一さんがおられた。
横山さんは、そのとき、たいへん率直でユーモラスな挨拶をされた。
「私は漫画をかいていますが、いまは、漫画だけではなかなかむずかしい時代なので、『フクチャン』を描いている新聞社の嘱託をつとめています。そして家で、日に三度ずつ食卓についているのです」
ぼくは、ぼくの食卓と関係のなかった嘱託を、怠惰な「内職」のことを思い出し、ひとりで顔を赤くした。
——一九五七年一一月 文藝春秋——