きものはずいぶん長持ちのするもので、洋服にくらべると得である。むろん損得だけで着るものを選ぶわけではないが、私は父のきものを今でも着ている。
父は昭和二年に亡くなったから、かれこれ四十年も前のきもので、それが、今着てもちっともおかしくないのは、洋服では考えられないことである。人前へ出るのはさすがにはばかられるけれども、家で着ているぶんには少しも差支えない。
だいたい、きものを着て外出することは、めったにない。せいぜい、近所を散歩する時ぐらいのものである。誰も言うことだが、町なかでは、どうにもあがきが悪くて不便だからである。
家の中では、夏を除けば、たいていきもので通している。汗っかきの暑がりで、夏はショートパンツにシャツがなによりである。しかしその他の季節では、きものがいい。
からだの楽なこと、気分のくつろぐことが第一。洋服姿で外出して、家へ帰ってきものに着かえるという変化の楽しみが第二。つまり、私のきものは舞台裏専門で、若いお嬢さんがたのきものを着る理由とは正反対の関係になる。
藍《あい》や、鉄無地のつむぎ、藍大島、紺のウール地のきものなどを、よく着る。柔らかいもの、粋なものは、さける。麻も、しわが出るので、あまり歓迎しない。新しいゆかたは、実に気分のいいものだが、前述の理由で、あまり着ない。着ても、すぐ肌ぬぎになってしまうから、なんにもならない。芝居の稽古着や楽屋着として、たまに使うぐらいである。
若いお嬢さんがたが、正月や結婚式や同窓会に着るのを除けば、このごろ、若い人たちは、いったいにきものを着なくなっている。ことに、男がそうである。職業上の必要か、特殊な環境あるいは状態にいるか、ことさらな工夫の結果か、いずれにしても若い男がきものを着ているのはよほど例外的な感じのするもので、男のきもの姿というものは、生活の舞台裏においてさえ、これからますます少なくなって行くことだろう。
一国の伝統的衣生活が、だんだん崩れて、欧米風の装いに近づいて行くのは、世界的な傾向のようで、止むを得ぬ大勢なのかもしれない。
私は子供のころから、家にいるときはきものを着せられていたから、それがそのままなんとなくつづいているだけで、ことさらに人にすすめようとも思わないし、きものについて、やかましい注文をもっているわけでもない。
しかし、男のきものがだんだん無用の長物化していく傾向が動かしがたいとすれば、なまじ有用化することを考えずに、つまり、なまじ女のきものにおこなわれているような新工夫や、新様式を取り入れずに、伝統的な技術と形とを守って、ますます無用の長物化していくことが、望ましいと考える。こんなことを言うと、呉服屋さんや、きものデザイナー諸氏に怒られるかもしれないけれど、男のきものは、男の近代的社会的生活には適合しない。適合しないところを守っていくのが、男のきものを長生きさせる最良の道だと、私は考えているのである。変る部分は、年月の経過にしたがって、自然に変っていけばよいのである。
もっとも、こんなことは、すべて取り越し苦労であるかもしれない。女のきものは、紐だの帯だののやっかいさが、一と通りでなく、そこに、新工夫の生れる余地もあるのだろうが、男のきものは、その点、実にみごとに、簡単にできている。着て、ぐるっと帯を巻けば、出来上りである。帯をといて、パッと脱げば、それでおしまいである。この着脱の手っ取り早さは、はなはだ現代的で、新工夫もなにもあったものではない。
男のきものは、すたれて行くかもしれない。しかし、亡びることはないだろうと、私は思っている。
——一九六四年一一月 暮しの知恵——