昭和二十年六月、私たちの陸軍戦闘機隊は、鹿児島県知覧飛行場から、愛知県小牧飛行場に転進を命じられた。
当時私は、その戦闘機隊の、整備隊の一員であった。
私は、その先発小隊引率の任にあたったが、行ってみると、受入れ態勢がまるでできていない。そんな飛行隊がくることなど、全然きいていない、というのだから、話にならなかった。軍の上層部の指揮、連絡系統が、すでに、大分混乱しているようであった。
ようやく、滋賀県八日市飛行場へゆけという指示が出て、そこへ行ったが、ここはまったくの平時用の飛行場で、格納庫や兵舎が、滑走路のまわりにあからさまに立ち並んでいたから、空襲は、毎日来た。
八月、広島に新型の爆弾が投下されたというニュースにつづいて、ソ連軍が満州にはいったという記事が新聞に出た。もう、だめだと私は思った。
東京から来た将校が、広島の爆弾は、油圧を利用した特殊爆弾らしい、と説明した。黒っぽい服よりも、白っぽい服の方が、その爆弾の発する高熱を反射するべく、有利である。整備兵は、全員、作業衣を廃して体操衣を着るように。今から思えば笑話である。
戦争が終った。その日、となりの隊では、特攻隊として出発する予定だった若い少尉が、黙って独りで出発し、琵琶湖に突入して死んだ。軍の物資を持ちだそうとした兵や下士官を、若い将校が斬った。
しかし、私たちの戦隊長の指揮は冷静沈着であった。まず兵隊を、無事に家に帰すこと、次に幹部候補生、最後に現役の将校が残って、後命を待つこと。隊長小林少佐は、当時、幹候の少尉であった二十五歳の私と、ほぼ同年だったはずである。
小林氏は、つい昨年、自衛隊のジェット機の演習で亡くなられた由、人づてにきいた。
——一九六〇年八月 主婦と生活——