同じ芝居をもって違う劇場へ行くと、僕達はちょっと戸惑う。演技を舞台と客席との広さに応じて整えるのに手間どる。いちばん閉口するのは、舞台の「袖」からの登場である。東京の舞台では、雑木林から庭のベンチまで五歩で行けたのに、名古屋の舞台では、十五歩もかかる。思いに沈み、ゆるやかに歩を運ぶ大学教授は、厭でも大股になり、早足にならざるを得ない。いきおい東京の舞台が懐かしくなるという寸法だが、東京では又その雑木林から現われるのに、背景の空と地平線とを肩で擦りながら身体を斜めにして通り抜けていたのである。舞台はいつでも狭すぎるか広すぎるかだ。
舞台と客席の大きさに演技を適応させるのは、俳優として当り前のことだが、この場合、狭すぎるのも広すぎるのも、実は、舞台のプロポーションが著しく偏《かたよ》っている所から起っている同じ現象なのである。狭いのはいつも奥行であり、広いのはいつも間口なのだ。つまり、今日の日本の商業劇場の舞台は、奥行と高さとが足りず、間口だけがむやみに広いのだ。
これは「純日本風」の生活様式の上に成り立っている芝居、殊に、一定の寸法に縛られた日本家屋を「道具立て」とする芝居——歌舞伎と新派とを上演するための劇場が、近代日本の資本主義の中で、大量の観客を吸収するために、ひたすら、観客席を拡張しつづけて来たことの当然の結果である。しかも、困った事には、こういう畸型的なプロポーションが、商業劇場たると否とを問わず、本来歌舞伎や新派の上演を目的としない、ホールや公会堂にまで取り入れられてきているのだ。
こういう舞台にくらべると、十分な高さと奥行とをもった舞台は、少なくとも新しい芝居の上演にとっては、格段に有利である。舞台の空間が遥かに立体的になるから、環境の表現の可能性が広くなる。照明によるヴァリエーションがずっと幅をもってくるから、単純な装置で強い効果をあげることができる。
現代の演劇における劇場は、藝術鑑賞の場所であると同時に、というより同じことだが、人間の会合の場所だ。舞台は、俳優が夢み、行動し、生きる場所だ。間口ばかり広い舞台は、俳優が眺められ、並び、絵模様になるにふさわしい。それはドラマの舞台よりは、スペクタクルの舞台にふさわしいのである。勿論こういう舞台しかないことが作家や俳優の口実になるわけはない。舞台が変ればつまらぬ芝居も面白くなると思うのは、浅はかな進歩主義だ。しかし、高さも深さもなく間口ばかり広い舞台を生んだ力に対する抵抗を抛棄すれば、現代演劇は忽ち頓死するだろう。
——一九五二年二月 美術批評——