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決められた以外のせりふ83

时间: 2019-01-08    进入日语论坛
核心提示:「ガヤガヤ」の世界 堀田善衞の近著「文学的断面」の中に、「中村君の回想について」という一文がある。 この文章が雑誌に発表
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「ガヤガヤ」の世界
 
 
 堀田善衞の近著「文学的断面」の中に、「中村君の回想について」という一文がある。
 この文章が雑誌に発表された時、私は、文中で堀田が声をかけてくれた通り、入院中であった。中村真一郎の「戦後文学の回想」の読後感を芯にして、渦を巻くように、いわば螺旋《らせん》状に考えを押し進めてゆく、いかにも堀田らしい自由な調子のエッセイで、なかなか面白かったが、その時気がついたことが一つあるので、書いておこうと思う。
 それは、昭和十五年、大学予科三年の時に、私達の上演したフランス語の芝居に関することである。
 中村が、「ヴィルドラックの『商船テナシティ』をフランス語で上演した時、堀田善衞がイギリス人水夫になり、彼の福井弁を基礎として英語なまりのフランス語を喋るという、妙技を演じてくれたのが、記憶に残っている」と書いたのに対して、堀田が、事実と違うことを指摘し、彼の演じたのはイギリス人水夫ではなく、「終幕ぎりぎりの最後に空《から》の舞台に小生が登場して、たった一言"Adieu!"(あばよ)と言うと、幕がガラガラガラとおりて来るという、そういう役であった」と訂正しているところである。
 文中堀田は、宇野浩二、広津和郎両氏や、中村の記憶のたしかな事に感心し、自分は記憶力には自信がないと書いているが、私は、堀田のこの文章によって、すっかり忘れていた事をいくつか思い出した。当時蚕糸会館(今のヴィデオ・ホール)の幕が、あげおろしするたびに、ガラガラとすさまじい音をたてたこと、芝居の後でフランス大使館から贈られた葡萄酒で乾杯したことなど、自慢にはならないが私はまるで忘れていたのである。
 だから中村の、そう言ってよければ、思い違いには気のついていた私も、堀田の訂正には、その通りだと思い、べつに怪しみもしなかった。そして、三日ばかり経ってから、待てよ、と思い直した。病院暮しに退屈していなかったら、私はそのまま気付かずにいたかも知れない。堀田の訂正にも、事実と違う点が一つあるのであった。
 堀田の演じた役は、せりふの全然ない、無言役であった。"Adieu"というのは、友と別れて独りカナダへ旅立つ青年セガールのせりふだった筈である。
 そのせりふを残してセガールがひっこむと、しばらく間があって、旅行者1に扮した高沼寒介が、つまり無言役の堀田が、出てくるのであった。そして宿のおかみが「何を召上りますか?」と声をかけるのがきっかけで、ガラガラガラと幕が降りてくるのであった。
 堀田は、「いかに仏語研究会上演の芝居とはいえ、フランス語でフランスの芝居を公演するなどという、甘やかで無邪気なことがいったいいつまでやっておられるものだろうかという、ある切迫したものが胸に迫っていたので」「本当に私は、“おさらばだ《アデイユ》”と思った」と書いている。
 堀田は、彼の登場のきっかけであった他人のせりふを、自分のせりふとして覚えていたわけだが、この思い違いは、よく納得が行く。この思い違いには、堀田の「おさらばだ」という気持の濃さが感じられる。「このときの芝居の世界のガヤガヤ(といったら芥川は怒るかも知れないが)からの離別は、私自身の文学的出発にとってはかなりの意味をもったかもしれないので」と堀田は書いているが、たしかにその通りであったろうと私も思う。
 ところで私自身は、相変らず「芝居の世界のガヤガヤ」の中にいて、相変らず幕の音を気にしたり、芝居の後で乾杯したりしているから、堀田の眼から見るといつまでも「甘やかで無邪気な」学芸会をやっているように見えるかも知れない。
 実をいえば、あの時、私も英語なまりのフランス語をしゃべるイギリス人水夫の役を演じながら、堀田と同じように、フランス語で芝居をやるなどというばかげた事はもう金輪際ごめんだと思い、ただ堀田のように「ガヤガヤ」の世界に背を向けて立去るかわりに、やはり一種の「切迫したもの」に促されて、逆にその世界の奥へ向って進んだのだが(だから私は怒るどころではないのである)、今度本になった機会にこの一文を読み直し、考え直してみると、役者というものはみな本質的に「甘やかで無邪気な」ところがあるように思えてくる。現実と空想との間に、宙ぶらりんになって、他動的に生きている頼りない存在であるように思えてくる。役者は自分だけではほとんど何も生み出すことが出来ず、ただひたすら、作者と同化したい、観客と同化したい、一緒に演技をする他の役者達と同化したいという気持、自分から脱け出したいという気持につき動かされて「ガヤガヤ」しながら生きているのである。
 役者は、贋《にせ》の顔をつくり、贋の衣裳を着て、借物の言葉をしゃべり、借物の生活をしてみせながら、まるでそれが本来自分の持物であるかのように意気揚々としている。まず自分がそれを信じなければ、眼の前でたちまち崩れてしまう一つの世界があることを、けっして自分の持物ではない一つの世界があることを、役者は知っているからである。作者が創り出し、観客が活気を吹きこむ、現実よりも濃く、確かに目に見え、耳に聞える想像の世界があることを、よく知っているからである。その世界が崩れてしまえば、役者はまったく無力な存在と化してしまうだろう。
 余計なことを書きすぎたかも知れぬ。外国旅行中の堀田の健康を、イギリス人水夫のように「ア・ヴォートル・サンテエエ」などとは言わずに、祈る。
                                             ——一九六四年一〇月 三田評論——
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