「やあ。元気かい?」と彼。
「モチロン。キミハドウ?」と私。
「ありがとう」にっこり笑う。「大阪の仕事はもう終った?」
「イヤ、マダダ。来週、私ハマタ行カネバナラヌ」
「忙しいんだな」
「キミト同ジサ」
私のビールが来る。乾杯。しかし私たちのグラスは触れ合わない。私たちの椅子の間には、いつも三つぐらいの空席があるからだ。
そのホテルのバーで、週に一日か二日、彼はいつも独りでビールを飲んでいる。
何となく顔見知りになり、そのうち、目顔で会釈し合うようになった。
いい顔だ。マーロン・ブランドとロバート・ボーンを足して、青年時代のチャーチルで割ったような顔をしている。四十歳ぐらいに見える。
初めて彼が英語で話しかけてきたのは大《おお》相撲《ずもう》の千秋楽の晩であった。
「大鵬が優勝しましたね」
「ソウデスネ」私の返事は、すこし素気なかったかもしれない。
「あなたは柏戸の方が好きですか?」
「両方トモ嫌イデハナイガ、元気ナ時ノ栃ノ海ガ私ハ好キデス。スポーツハ好キデスカ?」
「ええ」
口数は多くない。柔和な眼をしている。通りすがりのアメリカ人が話しかける。微笑しながら一言二言返事をする。静かに、非常に静かに話す。ある晩。
「暑くなりましたね」と彼。
「湿気ガアル。コレガ困リマス」と私。
「南の方もひどいけれど。しかし南は、海がきれいでね、夏は。沖縄、タヒチ」終りの方は、独り言にちかくなる。
「この人パイロットなんです、P航空の」
と、英語の話せるきびきびした若いバーテンが口をはさむ。アメリカの週刊誌を持ってくる。航空事故の写真が出ている。離陸直後に翼から発火し、あわやという寸前に、機長の沈着な処置で無事着陸したのだ。
「ああ、この機長はぼくの先輩です。ほら、去年一緒にここへ来ただろう、この席へ?」あいにく、バーテン君は覚えていない。
「原因ハ何デスカ? コノ発火ノ場所ハ変ダナ。油送管ハ通ッテイナイ」
「まだ原因不明なんです」
「潤滑油洩レカナ?」
「飛行機のこと、精しいですね」
「整備ヲヤッタコトガアルンデス、昔」
すると優しい彼の眼が急にいきいきとして、
「ほんとうに? ぼくも昔は整備です。あなた、今は? デスクのほうですか?」
「イヤ。今ノ職業ハゼンゼン別デス。私ハ航空兵デシタ」
「ああ、じゃぼくと同じだ。二十年前、ぼくは沖縄で整備をしていたんです」
「ホントウニ? 二十年前、私ハ沖縄へ行ク戦闘機ノ整備ヲシテイタノダガ」
「おお、それじゃ、ぼくたちはエネミー・フレンドだ」乾杯。しばらく沈黙。
後ろの卓では、したたかにアルコールの入ったバイヤーが二人、喚《わめ》き合っている。その向うには、ヴェトナム帰りのまだ少年といってもいい黒人の若者が三人、ビールのコップを前にして、さっきから石のように動かずにいる。どこかのクラブの舞台を終えたらしく、ブロンドとブリュネットの美女たちが賑やかに入ってくる。不意に彼が話しかける。
「空はいいですよ。海の上、砂漠の上。夜明け、夕方。ほんとにぼくは好きだ。世界中にぼく独りしかいないような気がすることがあります」
「ナルホド。私モ空ハ好キダ。シカシ、地面ノ上モ好キダナ」
「うん。だれもいないゴルフ場でプレイをするのは気持がいいな」
「劇場ハ? 劇場ニハ孤独ガアルト言ッタ詩人ガイル」
「劇場も悪くはないけど」ちょっと黙って、
「でもぼくは詩人じゃないから」またちょっと間をおいて、今度はにっこり笑う。「どうして、あなたはパイロットになろうと思わなかったのかなあ。いいよ、ほんとうに」
——ふとしたことで話をするようになって、いつもその同じ調子で、どこからでも話に入って行ける話し相手がいるというのは、いいものだ。
今日はいるかな、と思いながらバーのドアを押す。私のエネミー・フレンドは、そこにいる。柔和な眼が微笑している。私はいつものように三つほど中を置いた椅子に腰をおろす。
「ヤア。涼シクナッタネ」
「やあ。巨人軍、勝ってるね」
「ドウダッタ、今日ノ南ノ海ハ?」
「すごい色だった。見せたかったよ」
——一九六六年一〇月 婦人公論——